0-1 木根・ウツと音楽の出会い
今更いうまでもないが、TM NETWORKは3人のメンバーで構成されている。
・キーボード小室哲哉
:TMのリーダーを務め、かつTMの楽曲の大部分の作曲・編曲を担当
・ボーカル宇都宮隆
:ライブでは歌だけではなく、魅力的なダンスも披露
・ギター木根尚登
:キーボードも演奏、作曲も手がけ、リニューアル前にはパフォーマンスも担当
世間でTMというと、小室哲哉の率いるユニットというイメージで語られがちである。
もちろん小室はTM結成の発起人であり、リーダーであり、サウンドの要であり、彼の存在なくしてTMはありえなかった。
しかし同時に、小室だけでは決してTMはありえなかっただろう。
中でも木根は、世間では3人中でもっとも地味なイメージを持たれているが、後のTMにつながる人脈は、間違いなく彼を中心に形成された。
TMの前身バンドであるSPEEDWAYも、木根を中心に結成されたものであり、前史を語る際においては、どうしても木根を中心に語り起こすことになる。
木根は小学生の頃はグループサウンズに興味を持っており、クラブも器学部だったが(パートは大太鼓)、本格的に音楽を始めたのは中学時代だった。
中学2年の頃、兄が弾かなくなったフォークギターを引き取り、学校の休み時間にフォークギターで仲間と曲作りに励む毎日だった。
フォークやカレッジ・ポップスに影響されたところが大きかったと言う。
後にはロックに関心を寄せた時期もあったが、木根の心をもっともとらえた音楽がフォークだったことは、後の彼の様々な言動からもうかがうことができる。
ちなみに木根の好きなフォークシンガーベスト3は、1位吉田拓郎、2位井上陽水、3位かぐや姫だという。
中1の時にクラスに転校してきた青木高貴が吉田拓郎のレコードを貸してくれたのが、音楽を始めたきっかけだった。
青木高貴は、後にSPEEDWAYやTM NETWORKのマネージメントを務めた人物である。
木根が初めて作った曲のタイトルは「枯れ果てた世界」という。
ギター雑誌に掲載されていた歌詞に自分で曲をつけたものである。
木根は中2の時にこの曲を、中学校の体育館で行なわれたクラス対抗作曲コンクールで演奏した。
他にも「風来坊」などという、いかにも当時のものと分かるタイトルの曲を作っていた。
木根が最初に組んだグループは、学校の音楽仲間の一人と組んだフォークデュオだった。
中2の頃に、同級生と2人で、おんざろっくというデュオを組んだという情報もあるが、おそらく同じものだろう。
また中学3年の文化祭では、フリーダム&ピースというグループで出演したという。
フリーダム&ピースは文化祭の時だけの一時的なグループだったのかもしれないし、木根は複数のグループを掛け持ちしていたのかもしれない。
この頃の木根は、テレビ東京の「音楽の館」という番組のオーディションを受けたことがある。
だが受付後にバンドのメンバーが脱走してしまい、木根も仕方なく帰宅したという
この頃の木根はサッカー部でも活動しており、バレンタインデーには学校中の女子が木根に群がるほどの人気だった。
ウツによれば、木根が人生で一番モテていたのはこの頃だったという。
木根は高校に入ると、フォーク以外の音楽も聞くようになり、またギターだけでなくピアノも弾くようになった。
最初に弾けるようになったのは、The Beatles「Let it be」だった。
ただし高校になってもおんざろっくは継続しており、フォークへの関心も相変わらず途切れていなかったようである。
一方、ウツこと宇都宮隆は、小学校時代から木根とクラスメートだった。
木根がウツと出会ったのは、ウツが熊本から引っ越してきた時で、小学校2年の時とも3年の時とも言う(この点は木根の発言が一定していない)。
ドッジボールがうまいやつという印象はあり、一緒に映画を見に行ったこともあったというが、当初はそれほど仲がよかったわけでもないらしい。

若かりし日のウツ
2人の親しい付き合いは、高校時代にはじまる。
きっかけは、ウツが音楽を始めたことだった。
なおウツは大変マイペースな性格で(これは現在までそうだが)、意外にも音楽を始めるまでは、学校であまり目立たない存在だったという。
ウツは小学生の頃から歌手へのあこがれがあったが、関心があったのは当時流行していたグループサウンズで、特に6年生の頃にはザ・タイガースに夢中だったという。
2016年にはウツの「T.UTU with The Band All Songs Collection」に、ザ・タイガース「シーサイド・バウンド」(原曲1967年)のカバーが収録された。
これは1992年にレコーディングしたまま発表されていなかったお蔵入りの音源だった。
ウツがこの曲をカバーしようと思ったのは、タイガースへの愛着故だろう。
後のウツにもっとも影響を与えたのはロックンロールだった。
特にRod Stewartへの憧れは、しばしば自ら語っている。
後にバンドを始めた時(フリースペースの頃か)には、Rodが自分の声をつぶしたというエピソードを意識して、夜の球場で声を張り上げ、のどを強くするために声をつぶそうとしたという。
しかしそんなウツも、音楽活動の始まりはやはり木根と同様にフォークだった。
特に吉田拓郎や井上陽水にはまっていたらしい。
1970年代前半とは、そのような時代だったのだろう(リアルタイムでは知らないが)。
ウツは中3の時にフォークギターを買い、高校の頃にはバンドのボーカルを務めるようになった。
人前で初めて歌ったのは井上陽水「西へ東へ」だった。
木根に話を戻そう。
木根は高校に入ってからも、おんざろっくを続けていた。
おんざろっくには、青木高貴やその弟の裕二も加わったこともあった。
しかし4人体制で開いたコンサートは人が全然入らず、落ち込んだ青木兄弟はおんざろっくを脱退した。
おんざろっくが2人体制に戻った後、木根はウツが音楽を始めたことを聞き、ウツに加入を求めた。
木根とウツによる音楽活動の始まりである。
この前後の時期、オリジナルメンバーだった中学時代の同級生はフェードアウトしたため、以後のおんざろっくは木根とウツのデュオ的なグループとなった。
1974年、2人が17歳の時だったという。
ただ木根によれば、ウツと一緒に音楽をやっていたのは、高校1年後半から高校2年後半だったという。
高校1年後半に始めたとすれば、1973年10月~1974年3月頃となるが、この頃の木根とウツは16歳である。
学年を間違えることはあまりないだろうから、2人が一緒に音楽を始めたのは17歳ではなく16歳で、高校1年後半の1973~74年頃と考えておく。
なお木根によれば、高校時代、ウツと組む以前(つまり高校1年)に、「同級生とのデュオ」(おんざろっくのことだろう)の曲にピアノを入れるために、女性メンバーを加えたことがあった。
だが木根も同級生もこの女性を気に入ってしまい、木根は短期間付き合ったという。
憶測だが同級生が来なくなったのは、この件が関係しているのかもしれない。
木根はこの女性からふられた夜、作詞作曲「鬼寝名音」(きねなおとの当て字)名義で「自業自得」という曲を作った。
この曲は好評だったため、ウツとのデュオ時代にも演奏し、オーディションでも演奏していたという。
後に2010年、「木根本」にこの曲の譜面が出ており、貴重な資料である(ただし年代を「1975頃」とするのはあまり信憑性がない)。
この時代の作風が分かる好例なので、歌詞の一部を以下に挙げておこう。
「Twilight Moon」に掲載されている2002/4/27「Utsu Kine Solo 10th Aniversary FC Event in 合歓」のライブレポートに拠ると、おんざろっくには 「しぐれ坂」「終電車」「自業自得」「愛ちゃんの星」「サヨナラ五月」「花火の夜」「ムーンライト・シンデレラ」などという曲があったらしい。
他に「雨の詩」「嫁ぐ日に」「卒業写真集」「つつじヶ丘三丁目」「台風坊主」「終着駅」などの曲名も確認されている。
木根・ウツ体制のおんざろっくは、青木が作詞をして木根が作曲をするという制作体制を取っていた。
高校生が「嫁ぐ日に」という曲を作るとは、なかなかすごいものである
また「花火の夜」は、結納を済ませた男に隠し妻がいたという歌詞だった。
他にもいろいろと突っ込みどころのある歌詞が多かった。
なお青木は、SPEEDWAYの「The Esther」でも作詞を手掛けている。
この後のおんざろっくには、同級生も参加するようになった。
木根によれば、2人のまわりにミュージシャン仲間が集まってきて、ドラム・ギター中心のロックバンドになり、音楽も変わってきたという。
先に述べたように、木根は、ウツと一緒に音楽をしていたのは高校2年後半までといっているが、これは2人体制の期間を言ったものだろう(その後ウツが木根から離れたという話はない)。
おそらくおんざろっくは高校2年後半(1974年10月~1975年3月)にメンバーが増え、フォークデュオ体制が事実上解消されたのである。
木根は高校2年の頃にバンドを作ったとも言っている。
新たに合流したメンバーとして知られるのは、ベースの樋口潔志とドラムの荒井克己である。
ともに後にSPEEDWAYのメンバーとなる人物である。
樋口の参加は高校3年生の春という。
樋口はLed Zeppelinなどハードロックが好きだった。
荒井の参加時期は不明だが、高校2年に遡るかもしれない。
ウツはライブでしゃべらなかったため、ライブでは荒井がもっぱらMCを務めたという。
この頃の木根は、学校の音楽仲間の中心的存在だった。
木根の家はなぜか音楽に興味のある連中の溜まり場になり、置き場のない楽器の置き場所になった。
木根自身は大して楽器を買わなかったが、楽器には困らなかったという。
木根は高校時代、ダンスパーティのDJをやったこともあり、また高校卒業後の1976年頃には、ソロコンサートも開催している。
ソロコンサートでは20曲のオリジナル曲を演奏し、中には20分を越すプログレッシブ・ロックの曲もあったという。
木根はYESのRick Wakemanを気取り、ステージ上にキーボードを何台も並べ、ハモンドオルガンも自ら購入した。
ソロコンサートは高3の時という発言もあるが、木根がシンセに手を出すようになったのは高校卒業後らしいので、このコンサートもその時期と見てよい。
なおこのコンサートには、ウツもアコギとコーラスでサポート参加した。
この件からは、木根もプログレにはまった時期があったことが知られる。
高校卒業前後における木根の音楽的関心の広がりを知ることができる。
これは後の小室との音楽的接点にもなっただろう。
木根もウツも高校卒業後は大学に進学せず、しばらく音楽三昧の生活だったようである。
そのような中で木根は1976年12月、ウツや他の仲間とともにフリースペースというロックバンドを結成した。
バンド名は宇宙をイメージしたものだったという。
木根によれば、フリースペースはおんざろっくとそのバックバンドを一緒にしたものだったという。
木根の中では、おんざろっくのメンバーは木根とウツの2人だけで、樋口や荒井はバックバンドという位置づけなのだろうか。
ただこの時代の所属関係は厳密なものでもないだろうから、あまり深く考えなくてよいだろう。
なお1976年12月にフリースペースが結成されたという情報と微妙に齟齬する者として、高校卒業と同時に新しいバンドを結成したという木根の発言もある。
「高校卒業と同時」を厳密に解釈すれば、1976年4月と12月にバンドを2回結成したとことになるが、おそらく一つのことを言っているのだと思う。
フリースペースの名義が固まったのが12月だったということだろう。
それまで木根たちはおんざろっくの名義を使い続けたのかもしれない。
あるいはおんざろっくは高校卒業とともに一度解散したが、結局12月にフリースペースの名義で再集結したとも考えられる。
(木根のソロコンサートは、フリースペース結成前の時期かもしれない)
木根はフリースペースのリーダーで、キーボード担当だった。
TMに詳しくない人が、木根がキーボードを弾くのを見ると驚いたりするが、木根は本来キーボードプレイヤーで、ギタリストになったのはTMになってからである。
木根がエレキギターを弾けないのは、ある意味で仕方ないとも言える。
メンバーとしてはウツ(ボーカル)の他、荒井克己が1977年夏に、パーカッションとしてフリースペースに加入したことが知られる。
荒井は高校時代におんざろっくのドラムを務めていたが、すぐにはフリースペースに参加しなかったと見られる。
また1977年11月には、岩野光邦(ギター)が加入した。
以上で確認できるのは木根・ウツ・荒井・岩野の4人だが、実際にはもっとメンバーがいたらしい。
荒井が自分のことを、フリースペース6人目のメンバーだったと言っているからである。
荒井・岩野参加以前のフリースペースは5人編成だったはずで、木根・ウツ以外に3人のメンバーがいたことになる。
おんざろっくでドラムを務めた荒井がパーカッションとして参加したのは、別にドラマーがいたためと考えられる。
あとの2人はギターとベースだろう。
ロックバンドにギターがいないことは考えられないので、岩野が参加した1977年11月以前には、別のギターがいたはずである。
おそらく前任のギタリストが脱退して岩野が参加したのだろう。
フリースペースには内田好美というギタリストが在籍したことが知られており、岩野の前のメンバーと見られる(他の前任者もいたかもしれない)。
結成当初のドラムとベースの名を明記した資料はないが、後の1979年にSPEEDWAYとしてデビューしたメンバーには、木根・ウツ・荒井・岩野に加え、ベースの樋口潔志とドラムの杉本ユウがいた。
樋口と杉本の参加時期は不明だが、フリースペース時代から在籍していた可能性がある。
特に樋口はおんざろっくにも参加していたから、人脈の面でも当初からフリースペースに参加していたことは十分に考えられる。
これに対して杉本は高校時代の木根との付き合いは確認できず、別のバンドで活動していたことが知られる
木根らと合流する以前はボーカルを担当することもあったが、その後ドラムとしてSPEEDWAYに参加したという。
この杉本の証言を文字通りに取れば、杉本はフリースペース時代は参加していなかったことになるが、フリースペースとSPEEDWAYを区別せずに言っている可能性もあり、この点は保留しておきたい。
アマチュアバンド故、メンバーの出入も多かったと考えられ、他にも現在では知られないメンバーが存在した可能性はある。
フリースペースは機材の充実が売りで、メンバーはバイト代を機材につぎ込む一方で、これを他のバンドにレンタルして金を稼いでいたと言う。
またボーカルのウツだけ何も買わないのはずるいということで、PAを買わされたというひどいエピソードもある。
フリースペースは八王子を中心に活動したが、1977年3月にはファンクラブも結成され、結成後半年にして、地元ではかなりの人気者だったらしい。
これは本人たちだけではなく、当時別のバンドで活動していた小室もそう言っている。
ステージでスモークを炊いていたのが、小室としては印象的だったという。
フリースペースは自らライブ活動を行なうだけでなく、三鷹のフィルモア楽器店の社長との合同企画としてライブイベントを企画し、出場バンドを募るなど、地元でも注目される存在だった。
こうした企画の手配の実質的なところを裏方として取り仕切っていたのは、フリースペースのマネージャー的な位置にいた青木高貴である。
ファンクラブの運営なども青木の仕事だった。
フリースペースはコンテストにも積極的に応募し、1977年には7・8・9月に都内の楽器店で開催されたコンテストを総なめにしたという。
特に9月に新星堂で開催された「新星堂ROCK INN '77 レコーディング・オーディション」では、「ライブ・ツアー」という曲で優勝したことが知られる。
この曲はフリースペースのライブではいつもオープニングで演奏されていたといわれ、代表曲だったと見られる。
アウトロで長いギターソロが入るロックナンバーだった。
なおこの「新星堂ROCKINN」で特別賞を取ったのが、横浜銀蝿だった。
1978年には、フリースペースの「あれは夢」「悲しきドール」などがラジオでオンエアされたらしく、それなりに注目されていたようである。
「悲しきドール」は、「八王子音楽祭」で作曲賞も取ったという。
他に「トマトジュース」「キューティ・レディ」「Please Say You Love Me」という曲もあった。
「キューティ・レディ」ではラテンを意識してパーカッションを入れたという。
このフリースペースの活動が基礎となって、木根・ウツたちは1979年、SPEEDWAYとしてプロデビューを果たすことになる。
フリースペースのメンバーではないが、この頃木根の音楽仲間で、いち早くプロデビューを決めた者がいた。
ベーシストの阿部晴彦である。
フリースペースのステージにも、ギターで参加したことがあった。
仲間内でも卓越した技術の持ち主だったと言い、1979年にイルカのバックバンドのベースとしてデビューした。
同年には木根らもSPEEDWAYとしてプロデビューすることになるから、だいたいこの頃が木根たちにとっての画期となったといえよう。
仲間内でも将来を嘱望された阿部だったが、1980/5/18に、アレンジャーの木田高介とともに、山梨県で自動車事故を起こし、帰らぬ人となった。
一ヵ月後の6/29、日比谷野外音楽堂で二人の追悼コンサートが行なわれ、木根・ウツ・小室を含むSPEEDWAYや、阿部在籍のバンドのスクランブル・エッグも参加した。
TM3代目マネージャーの井上哲生は、このスクランブル・エッグのメンバーである。
この時の追悼コンサートにはSPEEDWAYの他、かぐや姫、吉田拓郎、山本コウタロー、はしだのりひこ、小室等、上条恒彦、ザ・ナターシャセブン、倍賞千恵子、イルカなどが出演した(どうでも良いことだが、同姓ということでよく並べられる小室等と小室哲哉は共演経験があったことになる)。
他の出演者とのあまりの知名度の違いのため、木根たちは大変いづらかったという。
またこれとは別に、仲間内でも阿部の追悼ライブが行なわれた。
かつてSPEEDWAYの公式サイトには、その時の写真が掲載されていた。
会場は、公式サイトには「府中の児童会館」とあるが立川の市民会館だったとの説もある(本記事多摩のおっちゃんさんコメント)。
阿部はイラプション時代から小室と知り合いで、1978年頃に小室哲哉に作詞を依頼したことがあった。
阿部は木根たちの一つ年下で、小室と同年代である。
当時特に作詞家として注目されていたわけでもなかった小室に作詞を依頼するというのは、興味深い。
その曲名は「You Can Find」といい、当時阿部のバンド(おそらくスクランブル・エッグ)によって実際に演奏されていた。
小室は当時これを、渋谷屋根裏というライブハウスで見たこともあった。
後に2007年、小室はその時のテープが残っていないかと思い、木根を通じて探してもらったことがある。
結局テープは出てこなかったものの、小室が書いた歌詞は見つかった。
これを見た小室がピアノで弾いた即興演奏曲「You Can Find」は、TM NETWORKのアルバム「SPEEDWAY」で聞くことができる。
(2006/8/5執筆 2006/11/24、2008/9/8、2010/12/26、2012/11/27、2014/1/12、2016/10/3、2020/1/30、2021/1/16、2022/6/30加筆)
・キーボード小室哲哉
:TMのリーダーを務め、かつTMの楽曲の大部分の作曲・編曲を担当
・ボーカル宇都宮隆
:ライブでは歌だけではなく、魅力的なダンスも披露
・ギター木根尚登
:キーボードも演奏、作曲も手がけ、リニューアル前にはパフォーマンスも担当
世間でTMというと、小室哲哉の率いるユニットというイメージで語られがちである。
もちろん小室はTM結成の発起人であり、リーダーであり、サウンドの要であり、彼の存在なくしてTMはありえなかった。
しかし同時に、小室だけでは決してTMはありえなかっただろう。
中でも木根は、世間では3人中でもっとも地味なイメージを持たれているが、後のTMにつながる人脈は、間違いなく彼を中心に形成された。
TMの前身バンドであるSPEEDWAYも、木根を中心に結成されたものであり、前史を語る際においては、どうしても木根を中心に語り起こすことになる。
木根は小学生の頃はグループサウンズに興味を持っており、クラブも器学部だったが(パートは大太鼓)、本格的に音楽を始めたのは中学時代だった。
中学2年の頃、兄が弾かなくなったフォークギターを引き取り、学校の休み時間にフォークギターで仲間と曲作りに励む毎日だった。
フォークやカレッジ・ポップスに影響されたところが大きかったと言う。
後にはロックに関心を寄せた時期もあったが、木根の心をもっともとらえた音楽がフォークだったことは、後の彼の様々な言動からもうかがうことができる。
ちなみに木根の好きなフォークシンガーベスト3は、1位吉田拓郎、2位井上陽水、3位かぐや姫だという。
中1の時にクラスに転校してきた青木高貴が吉田拓郎のレコードを貸してくれたのが、音楽を始めたきっかけだった。
青木高貴は、後にSPEEDWAYやTM NETWORKのマネージメントを務めた人物である。
木根が初めて作った曲のタイトルは「枯れ果てた世界」という。
ギター雑誌に掲載されていた歌詞に自分で曲をつけたものである。
木根は中2の時にこの曲を、中学校の体育館で行なわれたクラス対抗作曲コンクールで演奏した。
他にも「風来坊」などという、いかにも当時のものと分かるタイトルの曲を作っていた。
木根が最初に組んだグループは、学校の音楽仲間の一人と組んだフォークデュオだった。
中2の頃に、同級生と2人で、おんざろっくというデュオを組んだという情報もあるが、おそらく同じものだろう。
また中学3年の文化祭では、フリーダム&ピースというグループで出演したという。
フリーダム&ピースは文化祭の時だけの一時的なグループだったのかもしれないし、木根は複数のグループを掛け持ちしていたのかもしれない。
この頃の木根は、テレビ東京の「音楽の館」という番組のオーディションを受けたことがある。
だが受付後にバンドのメンバーが脱走してしまい、木根も仕方なく帰宅したという
この頃の木根はサッカー部でも活動しており、バレンタインデーには学校中の女子が木根に群がるほどの人気だった。
ウツによれば、木根が人生で一番モテていたのはこの頃だったという。
木根は高校に入ると、フォーク以外の音楽も聞くようになり、またギターだけでなくピアノも弾くようになった。
最初に弾けるようになったのは、The Beatles「Let it be」だった。
ただし高校になってもおんざろっくは継続しており、フォークへの関心も相変わらず途切れていなかったようである。
一方、ウツこと宇都宮隆は、小学校時代から木根とクラスメートだった。
木根がウツと出会ったのは、ウツが熊本から引っ越してきた時で、小学校2年の時とも3年の時とも言う(この点は木根の発言が一定していない)。
ドッジボールがうまいやつという印象はあり、一緒に映画を見に行ったこともあったというが、当初はそれほど仲がよかったわけでもないらしい。

若かりし日のウツ
2人の親しい付き合いは、高校時代にはじまる。
きっかけは、ウツが音楽を始めたことだった。
なおウツは大変マイペースな性格で(これは現在までそうだが)、意外にも音楽を始めるまでは、学校であまり目立たない存在だったという。
ウツは小学生の頃から歌手へのあこがれがあったが、関心があったのは当時流行していたグループサウンズで、特に6年生の頃にはザ・タイガースに夢中だったという。
2016年にはウツの「T.UTU with The Band All Songs Collection」に、ザ・タイガース「シーサイド・バウンド」(原曲1967年)のカバーが収録された。
これは1992年にレコーディングしたまま発表されていなかったお蔵入りの音源だった。
ウツがこの曲をカバーしようと思ったのは、タイガースへの愛着故だろう。
後のウツにもっとも影響を与えたのはロックンロールだった。
特にRod Stewartへの憧れは、しばしば自ら語っている。
後にバンドを始めた時(フリースペースの頃か)には、Rodが自分の声をつぶしたというエピソードを意識して、夜の球場で声を張り上げ、のどを強くするために声をつぶそうとしたという。
しかしそんなウツも、音楽活動の始まりはやはり木根と同様にフォークだった。
特に吉田拓郎や井上陽水にはまっていたらしい。
1970年代前半とは、そのような時代だったのだろう(リアルタイムでは知らないが)。
ウツは中3の時にフォークギターを買い、高校の頃にはバンドのボーカルを務めるようになった。
人前で初めて歌ったのは井上陽水「西へ東へ」だった。
木根に話を戻そう。
木根は高校に入ってからも、おんざろっくを続けていた。
おんざろっくには、青木高貴やその弟の裕二も加わったこともあった。
しかし4人体制で開いたコンサートは人が全然入らず、落ち込んだ青木兄弟はおんざろっくを脱退した。
おんざろっくが2人体制に戻った後、木根はウツが音楽を始めたことを聞き、ウツに加入を求めた。
木根とウツによる音楽活動の始まりである。
この前後の時期、オリジナルメンバーだった中学時代の同級生はフェードアウトしたため、以後のおんざろっくは木根とウツのデュオ的なグループとなった。
1974年、2人が17歳の時だったという。
ただ木根によれば、ウツと一緒に音楽をやっていたのは、高校1年後半から高校2年後半だったという。
高校1年後半に始めたとすれば、1973年10月~1974年3月頃となるが、この頃の木根とウツは16歳である。
学年を間違えることはあまりないだろうから、2人が一緒に音楽を始めたのは17歳ではなく16歳で、高校1年後半の1973~74年頃と考えておく。
なお木根によれば、高校時代、ウツと組む以前(つまり高校1年)に、「同級生とのデュオ」(おんざろっくのことだろう)の曲にピアノを入れるために、女性メンバーを加えたことがあった。
だが木根も同級生もこの女性を気に入ってしまい、木根は短期間付き合ったという。
憶測だが同級生が来なくなったのは、この件が関係しているのかもしれない。
木根はこの女性からふられた夜、作詞作曲「鬼寝名音」(きねなおとの当て字)名義で「自業自得」という曲を作った。
この曲は好評だったため、ウツとのデュオ時代にも演奏し、オーディションでも演奏していたという。
後に2010年、「木根本」にこの曲の譜面が出ており、貴重な資料である(ただし年代を「1975頃」とするのはあまり信憑性がない)。
この時代の作風が分かる好例なので、歌詞の一部を以下に挙げておこう。
昨日はあんなことをいってしまったけど、
あれが本当の気持ちではないことは分かるだろう
心にないのでしょうか?
もう二人の愛のロウソクは燃え尽きてしまったのですか?
「Twilight Moon」に掲載されている2002/4/27「Utsu Kine Solo 10th Aniversary FC Event in 合歓」のライブレポートに拠ると、おんざろっくには 「しぐれ坂」「終電車」「自業自得」「愛ちゃんの星」「サヨナラ五月」「花火の夜」「ムーンライト・シンデレラ」などという曲があったらしい。
他に「雨の詩」「嫁ぐ日に」「卒業写真集」「つつじヶ丘三丁目」「台風坊主」「終着駅」などの曲名も確認されている。
木根・ウツ体制のおんざろっくは、青木が作詞をして木根が作曲をするという制作体制を取っていた。
高校生が「嫁ぐ日に」という曲を作るとは、なかなかすごいものである
また「花火の夜」は、結納を済ませた男に隠し妻がいたという歌詞だった。
他にもいろいろと突っ込みどころのある歌詞が多かった。
なお青木は、SPEEDWAYの「The Esther」でも作詞を手掛けている。
この後のおんざろっくには、同級生も参加するようになった。
木根によれば、2人のまわりにミュージシャン仲間が集まってきて、ドラム・ギター中心のロックバンドになり、音楽も変わってきたという。
先に述べたように、木根は、ウツと一緒に音楽をしていたのは高校2年後半までといっているが、これは2人体制の期間を言ったものだろう(その後ウツが木根から離れたという話はない)。
おそらくおんざろっくは高校2年後半(1974年10月~1975年3月)にメンバーが増え、フォークデュオ体制が事実上解消されたのである。
木根は高校2年の頃にバンドを作ったとも言っている。
新たに合流したメンバーとして知られるのは、ベースの樋口潔志とドラムの荒井克己である。
ともに後にSPEEDWAYのメンバーとなる人物である。
樋口の参加は高校3年生の春という。
樋口はLed Zeppelinなどハードロックが好きだった。
荒井の参加時期は不明だが、高校2年に遡るかもしれない。
ウツはライブでしゃべらなかったため、ライブでは荒井がもっぱらMCを務めたという。
この頃の木根は、学校の音楽仲間の中心的存在だった。
木根の家はなぜか音楽に興味のある連中の溜まり場になり、置き場のない楽器の置き場所になった。
木根自身は大して楽器を買わなかったが、楽器には困らなかったという。
木根は高校時代、ダンスパーティのDJをやったこともあり、また高校卒業後の1976年頃には、ソロコンサートも開催している。
ソロコンサートでは20曲のオリジナル曲を演奏し、中には20分を越すプログレッシブ・ロックの曲もあったという。
木根はYESのRick Wakemanを気取り、ステージ上にキーボードを何台も並べ、ハモンドオルガンも自ら購入した。
ソロコンサートは高3の時という発言もあるが、木根がシンセに手を出すようになったのは高校卒業後らしいので、このコンサートもその時期と見てよい。
なおこのコンサートには、ウツもアコギとコーラスでサポート参加した。
この件からは、木根もプログレにはまった時期があったことが知られる。
高校卒業前後における木根の音楽的関心の広がりを知ることができる。
これは後の小室との音楽的接点にもなっただろう。
木根もウツも高校卒業後は大学に進学せず、しばらく音楽三昧の生活だったようである。
そのような中で木根は1976年12月、ウツや他の仲間とともにフリースペースというロックバンドを結成した。
バンド名は宇宙をイメージしたものだったという。
木根によれば、フリースペースはおんざろっくとそのバックバンドを一緒にしたものだったという。
木根の中では、おんざろっくのメンバーは木根とウツの2人だけで、樋口や荒井はバックバンドという位置づけなのだろうか。
ただこの時代の所属関係は厳密なものでもないだろうから、あまり深く考えなくてよいだろう。
なお1976年12月にフリースペースが結成されたという情報と微妙に齟齬する者として、高校卒業と同時に新しいバンドを結成したという木根の発言もある。
「高校卒業と同時」を厳密に解釈すれば、1976年4月と12月にバンドを2回結成したとことになるが、おそらく一つのことを言っているのだと思う。
フリースペースの名義が固まったのが12月だったということだろう。
それまで木根たちはおんざろっくの名義を使い続けたのかもしれない。
あるいはおんざろっくは高校卒業とともに一度解散したが、結局12月にフリースペースの名義で再集結したとも考えられる。
(木根のソロコンサートは、フリースペース結成前の時期かもしれない)
木根はフリースペースのリーダーで、キーボード担当だった。
TMに詳しくない人が、木根がキーボードを弾くのを見ると驚いたりするが、木根は本来キーボードプレイヤーで、ギタリストになったのはTMになってからである。
木根がエレキギターを弾けないのは、ある意味で仕方ないとも言える。
メンバーとしてはウツ(ボーカル)の他、荒井克己が1977年夏に、パーカッションとしてフリースペースに加入したことが知られる。
荒井は高校時代におんざろっくのドラムを務めていたが、すぐにはフリースペースに参加しなかったと見られる。
また1977年11月には、岩野光邦(ギター)が加入した。
以上で確認できるのは木根・ウツ・荒井・岩野の4人だが、実際にはもっとメンバーがいたらしい。
荒井が自分のことを、フリースペース6人目のメンバーだったと言っているからである。
荒井・岩野参加以前のフリースペースは5人編成だったはずで、木根・ウツ以外に3人のメンバーがいたことになる。
おんざろっくでドラムを務めた荒井がパーカッションとして参加したのは、別にドラマーがいたためと考えられる。
あとの2人はギターとベースだろう。
ロックバンドにギターがいないことは考えられないので、岩野が参加した1977年11月以前には、別のギターがいたはずである。
おそらく前任のギタリストが脱退して岩野が参加したのだろう。
フリースペースには内田好美というギタリストが在籍したことが知られており、岩野の前のメンバーと見られる(他の前任者もいたかもしれない)。
結成当初のドラムとベースの名を明記した資料はないが、後の1979年にSPEEDWAYとしてデビューしたメンバーには、木根・ウツ・荒井・岩野に加え、ベースの樋口潔志とドラムの杉本ユウがいた。
樋口と杉本の参加時期は不明だが、フリースペース時代から在籍していた可能性がある。
特に樋口はおんざろっくにも参加していたから、人脈の面でも当初からフリースペースに参加していたことは十分に考えられる。
これに対して杉本は高校時代の木根との付き合いは確認できず、別のバンドで活動していたことが知られる
木根らと合流する以前はボーカルを担当することもあったが、その後ドラムとしてSPEEDWAYに参加したという。
この杉本の証言を文字通りに取れば、杉本はフリースペース時代は参加していなかったことになるが、フリースペースとSPEEDWAYを区別せずに言っている可能性もあり、この点は保留しておきたい。
アマチュアバンド故、メンバーの出入も多かったと考えられ、他にも現在では知られないメンバーが存在した可能性はある。
フリースペースは機材の充実が売りで、メンバーはバイト代を機材につぎ込む一方で、これを他のバンドにレンタルして金を稼いでいたと言う。
またボーカルのウツだけ何も買わないのはずるいということで、PAを買わされたというひどいエピソードもある。
フリースペースは八王子を中心に活動したが、1977年3月にはファンクラブも結成され、結成後半年にして、地元ではかなりの人気者だったらしい。
これは本人たちだけではなく、当時別のバンドで活動していた小室もそう言っている。
ステージでスモークを炊いていたのが、小室としては印象的だったという。
フリースペースは自らライブ活動を行なうだけでなく、三鷹のフィルモア楽器店の社長との合同企画としてライブイベントを企画し、出場バンドを募るなど、地元でも注目される存在だった。
こうした企画の手配の実質的なところを裏方として取り仕切っていたのは、フリースペースのマネージャー的な位置にいた青木高貴である。
ファンクラブの運営なども青木の仕事だった。
フリースペースはコンテストにも積極的に応募し、1977年には7・8・9月に都内の楽器店で開催されたコンテストを総なめにしたという。
特に9月に新星堂で開催された「新星堂ROCK INN '77 レコーディング・オーディション」では、「ライブ・ツアー」という曲で優勝したことが知られる。
この曲はフリースペースのライブではいつもオープニングで演奏されていたといわれ、代表曲だったと見られる。
アウトロで長いギターソロが入るロックナンバーだった。
なおこの「新星堂ROCKINN」で特別賞を取ったのが、横浜銀蝿だった。
1978年には、フリースペースの「あれは夢」「悲しきドール」などがラジオでオンエアされたらしく、それなりに注目されていたようである。
「悲しきドール」は、「八王子音楽祭」で作曲賞も取ったという。
他に「トマトジュース」「キューティ・レディ」「Please Say You Love Me」という曲もあった。
「キューティ・レディ」ではラテンを意識してパーカッションを入れたという。
このフリースペースの活動が基礎となって、木根・ウツたちは1979年、SPEEDWAYとしてプロデビューを果たすことになる。
フリースペースのメンバーではないが、この頃木根の音楽仲間で、いち早くプロデビューを決めた者がいた。
ベーシストの阿部晴彦である。
フリースペースのステージにも、ギターで参加したことがあった。
仲間内でも卓越した技術の持ち主だったと言い、1979年にイルカのバックバンドのベースとしてデビューした。
同年には木根らもSPEEDWAYとしてプロデビューすることになるから、だいたいこの頃が木根たちにとっての画期となったといえよう。
仲間内でも将来を嘱望された阿部だったが、1980/5/18に、アレンジャーの木田高介とともに、山梨県で自動車事故を起こし、帰らぬ人となった。
一ヵ月後の6/29、日比谷野外音楽堂で二人の追悼コンサートが行なわれ、木根・ウツ・小室を含むSPEEDWAYや、阿部在籍のバンドのスクランブル・エッグも参加した。
TM3代目マネージャーの井上哲生は、このスクランブル・エッグのメンバーである。
この時の追悼コンサートにはSPEEDWAYの他、かぐや姫、吉田拓郎、山本コウタロー、はしだのりひこ、小室等、上条恒彦、ザ・ナターシャセブン、倍賞千恵子、イルカなどが出演した(どうでも良いことだが、同姓ということでよく並べられる小室等と小室哲哉は共演経験があったことになる)。
他の出演者とのあまりの知名度の違いのため、木根たちは大変いづらかったという。
またこれとは別に、仲間内でも阿部の追悼ライブが行なわれた。
かつてSPEEDWAYの公式サイトには、その時の写真が掲載されていた。
会場は、公式サイトには「府中の児童会館」とあるが立川の市民会館だったとの説もある(本記事多摩のおっちゃんさんコメント)。
阿部はイラプション時代から小室と知り合いで、1978年頃に小室哲哉に作詞を依頼したことがあった。
阿部は木根たちの一つ年下で、小室と同年代である。
当時特に作詞家として注目されていたわけでもなかった小室に作詞を依頼するというのは、興味深い。
その曲名は「You Can Find」といい、当時阿部のバンド(おそらくスクランブル・エッグ)によって実際に演奏されていた。
小室は当時これを、渋谷屋根裏というライブハウスで見たこともあった。
後に2007年、小室はその時のテープが残っていないかと思い、木根を通じて探してもらったことがある。
結局テープは出てこなかったものの、小室が書いた歌詞は見つかった。
これを見た小室がピアノで弾いた即興演奏曲「You Can Find」は、TM NETWORKのアルバム「SPEEDWAY」で聞くことができる。
(2006/8/5執筆 2006/11/24、2008/9/8、2010/12/26、2012/11/27、2014/1/12、2016/10/3、2020/1/30、2021/1/16、2022/6/30加筆)
この記事へのコメント
現在54歳のウツのピカピカの一年生の写真ですね!
このウツの写真が見られるとは思ってもいませんでした。感激です♪
面影ありますね!かわいいです。
この20年後から世の女性を狂わせてしまう運命があったんですよね~☆
私もCrazy歴22年です^^ ♪♪
きっとこの頃から人見知りだったんでしょうね(笑
ウツのツイッターに「誰の目にも触れられずネット界に存在し続けるのでしょうか!」とこのコメントのつぶやきをしたところです。
貴重な写真 ありがとうございました^^*
NETWOIRK…なんでこんなことになっていたのか、自分でも頭を抱えます。
修正いたしましたので、どうぞお気をお鎮め下さいませ。
元ネタは出版物でしょうか?
TMの活動は当分ないだろうし、ライブのついでもなかなかないでしょうから、どこかで時間作りましょう。
関西にいらっしゃる時には是非連絡下さいね!
とりあえずお気を鎮めていただけたようで安堵いたしました。
>智紗さん
結構増やしましたよ
第一部もかなり増えるので、なかなか加筆が進まないのです…(言い訳)
第二部~四部はもう少し早くできると思っているんだけど。
元ネタはほぼ出版物ですが、他に関係者の発言とか、ラジオでのメンバーのトークとかもあります。
30周年の前後で出版物が増えたのと、色々と見せてもらったものがあったりしまして。
早く加筆したかったて言ってたの分かるでしょ?(全然早くできていないんだけど)
陥没事故、びっくりしました。早朝とはいえ怪我人がいないのが奇跡です。お気遣いありがとうございます(^^)
>惑星様
公になっている情報と関係者証言だけで、ここまで書けるのはすごいです!前のからしたら別物ですもん
来週水曜日に大阪に行きますよ。TM Barがあれば良いのですが、なかなか良い場所がありませんねぇ~~~。まぁ、またゆっくり大阪に滞在できる時にご連絡させて頂きたいと思います。
>智沙様
再来週あたり福岡に出没するかもしれません。
僕も行きました。
ステージの背景には阿部さんが愛用されていたベースが下がっていたのを覚えています。
ただ多摩のおっちゃんさんは立川市市民会館で参加したとのことで、どういうことなのかよくわからなくなってきました。
ブログでは両説併記に書き改めておきます。・
なおSPEEDWAYのサイトには、「その後Speedwayの地元でもある、府中の児童会館で阿部氏の追悼コンサートをもう一度開いた(写真)。Speedway、スクラングル・エッグそして音楽仲間が一同に介して彼の冥福を祈った」とかつて書かれていました。