0-6 小室脱退後のSPEEDWAY
小室哲哉はSPEEDWAYに加入し、楽曲制作で大きな役割を果たしただけでなく、様々な企画を考えるアイデアマンとしても活躍した。
その一つに、全国7都市を回るツアーもあった。
東京・静岡・名古屋・大阪・神戸・京都・金沢を回ったらしい。
移動は車2台で行なわれた。
東京では新宿RUIDO、京都では拾得、大阪ではジェイルハウスで開催された。
金沢公演は、NHK-FMの公開収録ライブだった。
ただ各会場で客はほとんど入らず、木根によれば半分以上の会場はゼロだった。
「半分以上」「ゼロ」というのは木根が話を盛っている可能性もあるが、観客のほとんどいない会場が複数あったのだろう。
会場のスタッフのみを前に2時間の演奏を行なったこともあったという。
デビュー前のフリースペース時代には、地元で数百規模の動員を達成していたというから、東京はある程度客が入ったはずだと思いたいが、地方ではまったく知られていなかったと考えられる。
そんな中で1980年11月初め(1日か2日頃)には、新宿RUIDOでライブが開催された。
11月5日の「Base Area」発売に先駆けたものである。
この日は当時のSPEEDWAYにとって重大な日になった。
小室哲哉から重要な提言が行われたのである。
それは、今のSPEEDWAYでは無理だというものだった。
おそらくアルバムのレコーディングを経て、ライブを行なった上での結論だったのだろう。
ウツと木根は、小室がこの時にSPEEDWAY解散を主張したと述べている(1996年「Only One Night Dream Away」MC)。
2015/4/17「TM NETWORKのオールナイトニッポン」では、小室が初めてこの件について口を開いた。
小室はたしかにあえてきつめに「SPEEDWAYは無理だ」と言ったが、その真意は必ずしも解散ではなかった。
すなわち6人という大所帯のバンド形式は古いから、もっと少人数に絞るべきだと言ったとのことである。
リーダーの木根とボーカルのウツ(と当然小室自身)を含む数人に絞ろうということだったのだろう。
「ドラムとか要ります?」などとも発言したらしい(ドラムのハタ☆ケンは小室の推薦もあって加入したのに…)。
SPEEDWAYはフリースペース時代以来、木根の音楽仲間によって継続的に活動を続けてきたバンドである。
木根は仲間みんなでバンドを成功に導きたいと思っていたに違いない。
そしてそれは、音楽的に不要なメンバーであっても切ることができない構造でもあっただろう。
だがシングルリリース後、アルバム発売直前になっても売れる気配がない現実を前に小室は、もうお友達だけで音楽をやっている場合ではないと感じたのではないか。
それは上の指示で動かざるを得なかったギズモ時代や、プロバンドのBOWWOWメンバーとともに活動した銀星団時代に培った、現実的な感覚だったのだろうと思う。
しかしウツと木根は、これを解散の主張と受け取った。
小室の考えは、他のメンバーには届かなかったようである。
リーダーの木根は、バンドの形態を捨てることに同意しなかった。
ましてや切り捨てるべきだとされたメンバーにとっては受け入れがたいものだっただろう。
しかも年下で、後から入ってきたヨソモノから言われたとなれば、なおさらである。
(さすがに小室もメンバー全員の前で発言したわけではなかっただろうが)
一部のメンバーが小室に対して良い感情を持っていなかったことは、木根も語っている。
別の時の木根の発言によれば、小室はSPEEDWAYをTMのルーツとする木根の考えに同意していないらしい。
おそらく小室が「オールナイトニッポン」でSPEEDWAYの改革提言の件を話したのも、SPEEDWAYとTMに直接の系譜関係はないということを述べたかったのだろう。
つまり大所帯のバンド形式ではなくメンバーを絞るという方針を実現させたのがTMであり、その点でTMは、むしろSPEEDWAY体制を否定した1980年の発言の延長にあると、小室は考えているのではないだろうか。
同じ頃に小室が始めたユニットであるSTAYは、レコーディングやライブの時に必要な人員をその都度集めるという形態を採っており、明らかにSPEEDWAY的な体制の対極にあった。
そしてTM NETWORKの体制は、このSTAYの系譜を引くものと考えられる。
実は小室は、1980年の間にすでにSTAYの活動を始めていた。
小室は1981/10/17のSTAYライブのMCで、「去年の暮れくらいに二回くらいやった曲を一曲やります」と発言しており、1980年の終わり頃にはライブを二回行っていたことが分かる。
当時の小室が考えていた音楽活動の形態はSTAYのような形であり、SPEEDWAY的なバンド形式は「古い」と感じられたのだろう。
おそらく小室は改革を拒否された後、なおしばらくはSPEEDWAYとしての活動を続けながら、脱退を視野に入れて次の活動を始めていたと考えられる。
その後SPEEDWAYは、レコード会社との契約期間を終えた。
その時期は明確ではないが、年度契約を結んでいたとすれば、1981年3月の契約切れを以って活動を一区切りさせた可能性が高いだろう。
木根は1981年4月頃、西条秀樹のバックバンドのポップンロールバンドで活動していたことが知られるが、これはSPEEDWAYの契約が3月で切れたことを受けたものかもしれない。
ウツは3月から数ヶ月後、サウスウェルというバンドに入っていた。
木根によれば、サウスウェルはSPEEDWAYの弟分のようなバンドだった。
1979/11/5に新宿ロフトでSPEEDWAYと対バンを行っており、遅くてもこの頃には活動を始めていたらしい。
その後1981年頃にボーカルが抜け、これを補う形でウツが加入したのだろう。
ウツが言うには、ここでは助っ人のような気持ちで歌っていたという。
「アサヒグラフ」1981/7/17付けの号の特集「屋根裏のロック」には、サウスウェルの写真が掲載されている(GAUZE氏提供資料による)。
ウツも含め全員Gパンで青のアロハシャツを着ており、写真はギターの立岡正樹のソロの場面らしい。
立岡は後のTM NETWORK二代目マネージャーで、現M-tres(ウツの事務所)の代表である。
撮影の日時は不明だが、ウツは6月頃にはサウスウェルにいたと見られる。
ただしSPEEDWAYは、プロ契約が終わり小室とウツが抜けた後も、ただちに消滅したわけではなかったようである。
春頃には、木根をボーカルとしてライブを行なったこともあった。
だがこれはうまくいかず、この体制はごく一時期で終わった。
SPEEDWAYは川村ゆう子のバックバンドとして活動することもあったが、ボーカルが不在になったことで、ライブを行なうことはできなくなったと考えられる。
サウスウェルはその後、「第22回YAMAHAポピュラーソングコンテスト」に出場した。
サウスウェルは「マイホームタウン」という曲で地区予選を通過し、関東甲信越大会まで進んだが、観客投票で落選してしまう。
最終的にサウスウェルは主催者推薦枠で、10/4に嬬恋村のつま恋エキジビションホールで行われた本選まで進むことができたが、本線では別のボーカリストが歌っている。
ウツは9月以前、地区大会を以ってサウスウェルを脱退したと見られる。
ウツの後、サウスウェルのボーカルは山本英美(男性)が務めたことが知られる。
嬬恋大会で歌ったのも山本だろうか。
サウスウェルは1982/7/25に吉祥寺シルバーエレファントで、SPEEDWAYと対バンライブを行なっていることも確認できる。
山本英美時代のサウスウェルはこの頃までは活動したらしい。
山本は後に1987年にソロミュージシャンとしてデビューし、現在まで木根と関係を持ち続けている。
なお「ポピュラーソングコンテスト」のグランプリは、アラジンの「完全無欠のロックンローラー」だった。
アラジンはこの曲で同年11/14にデビューするから、サウスウェルも優勝すればデビューできていたのだろう。
ただしその場合、TM NETWORKは生まれなかったことになる。
この時本選まで出場したバンドの曲は、LP「The 22nd Popular Song Contest」に収録された。
「マイホームタウン」は作詞石坂健一郎、作曲山田晃大となっている(GAUZE氏提供情報)。
メンバーとしてはボーカルの他にエレキギター2人、ベース、ドラム、キーボードが確認できる。
今後も日の目を見ることはないと思われるので、歌詞の一部を以下に引用しておこう。
以上の経緯を見れば、ウツは9月にはフリーの立場になっていたはずである。
ウツのサウスウェル脱退の話を聞いた木根は、ウツを再びSPEEDWAYに呼び戻した。
小室は10月17日に行なったSTAYのライブで、サポートの荒井カツミとハタ☆ケンを紹介する時に、「SPEEDWAYってのもまだあるんですよ。そのうちやるみたいです」と言っている。
この頃SPEEDWAYは実質的に活動休止状態だったが、再開予定(再開以前)でもあったようである。
そして後で見るように、SPEEDWAYは12月以前に活動を再開する。
つまりSPEEDWAYの本格的な活動再開は1981年10~12月の間だった。
以上のようにSPEEDWAYは1981年一時期休止状態になったが、10~12月頃のウツ復帰により活動を再開したと考えられる。
SPEEDWAY公式サイトには、1981年に解散したとは書かれておらず、小室が脱退してパーカッションの荒井カツミが復帰したという様に、メンバーの変更があっただけのように書いている(ウツの一時脱退にも触れていない)。
一度活動が中断しただけで、解散したわけではないと考えていたのかもしれない。
polytopeさんの情報によると、「ぴあ」からは1981年12月以降翌年まで、SPEEDWAYが渋谷・原宿などを拠点に、継続的に様子をうかがい知ることができる。。
(「0-3 小室哲哉と音楽の出会い」・「0-7 小室・木根・ウツその後 」コメント欄)
ただし1982年10月以降の情報は未確認である。
・1981/12/28小室哲哉 and STAY、スピード・ウェイ@渋谷屋根裏昼の部
・1982/1/17小室哲哉 and STAY、スピード・ウェイ@渋谷屋根裏昼の部
・1982/2/21 スピード・ウェイ@渋谷屋根裏昼の部
・1982/3/7 スピード・ウェイ@渋谷屋根裏昼の部
・1982/4/10 SPEED WAY@渋谷屋根裏昼の部
・1982/5/8 SPEED WAY@渋谷屋根裏昼の部
・1982/6/26 HELLO、WEEKIDS、SPEEDWAY@原宿クロコダイル
・1982/6/27 SPEED WAY@吉祥寺シルバーエレファント
・1982/7/25 サウスウェル、SPEED WAY@吉祥寺シルバーエレファント
・1982/7/26 SPEED WAY@原宿サンビスタ
・1982/9/11 坂本めぐみ、SPEED WAY@原宿クロコダイル
・1982/9/16 SPEED WAY、IKUMI BAND@立川38 avenue
これを見るにSPEEDWAYは、1982年前半までは渋谷屋根裏を、その後は原宿や吉祥寺を拠点としたらしい。
公式サイトによればこの時期のSPEEDWAYは、「屋根裏、EGGMAN、シルバーエレファント等ライブハウス」で活動したとされる。
屋根裏は渋谷、シルバーエレファントは吉祥寺のライブハウスで、ともに上記スケジュールに見える。
EGGMANは渋谷EGGMAN(1981年オープン)だろうが、上記には見えない。
他にも上記に記録されないライブ会場での活動もあったに違いない。
おそらくこの頃のことと思うのだが、SPEEDWAYは一部でコント、二部でライブを行なった。
これはウツのアイデアで、ずっとライブをやっていると行き詰るので、コントをやろうということになったという。
脚本はすべて木根が書いた。
木根がアマチュア時代のことと言っていることを重視すると、1979年のデビュー以前とも考えられるが、その頃には屋根裏での活動は確認できないので、一応今は活動再開期と考えておく。
(もちろんアマチュア時代の屋根裏ライブが現在確認できていないだけの可能性もある)
TM時代の木根は、コメディドラマ「日本一のバンド男」(1985年「TM VISION Ⅲ」)、ラジオ企画「TM NETWORK物語」(1987年「小室哲哉のSF ROCK STATION」)、イベント「Party Pavilion」(1992年)などで脚本を担当するが、その前提にはアマチュア時代のこうした試みもあったのである。
あるいは「CAROL」に始まる木根の小説家活動の前提として考えても良いかもしれない
気になるのは、この時期のSPEEDWAYと小室の関係である。
小室がSPEEDWAYの体制に批判的な発言をしたことを考えると、両者の関係には複雑なものがあったことも想像できる。
だが再結成当初のSPEEDWAYは小室哲哉 and STAYと対バンしていたし、岩野光邦・ハタ☆ケン・荒井カツミはSTAYのレコーディングやライブに参加したこともある。
全体として見れば、両者の関係は険悪だったというわけではないのだろう。
また2007年、小室の一声でTM NETWORKが再開した時にコンセプトとされたのは、あのままSPEEDWAYを続けてサードアルバムを作ったらどうなっていたのかということだった。
SPEEDWAYの曲がiTunesで配信されるようになったのを小室が聞き、曲の良さを再認識したことがきっかけだったらしい。
小室にとってのSPEEDWAYの位置が、この頃再浮上したようである。
小室がSPEEDWAY時代を肯定的に振り返ることは、これ以前にはほとんどなかった
だが2006年頃の小室は大量のプロデュースワークもやめ、DJTK名義で過去曲のリミックスを中心としていた頃であり、自らのルーツに対しての意識が高まってきたものと思われる。
(2006/8/5執筆 2006/11/24、2008/9/8、2012/11/27、2014/1/12、2016/10/3、2017/8/26追記)
その一つに、全国7都市を回るツアーもあった。
東京・静岡・名古屋・大阪・神戸・京都・金沢を回ったらしい。
移動は車2台で行なわれた。
東京では新宿RUIDO、京都では拾得、大阪ではジェイルハウスで開催された。
金沢公演は、NHK-FMの公開収録ライブだった。
ただ各会場で客はほとんど入らず、木根によれば半分以上の会場はゼロだった。
「半分以上」「ゼロ」というのは木根が話を盛っている可能性もあるが、観客のほとんどいない会場が複数あったのだろう。
会場のスタッフのみを前に2時間の演奏を行なったこともあったという。
デビュー前のフリースペース時代には、地元で数百規模の動員を達成していたというから、東京はある程度客が入ったはずだと思いたいが、地方ではまったく知られていなかったと考えられる。
そんな中で1980年11月初め(1日か2日頃)には、新宿RUIDOでライブが開催された。
11月5日の「Base Area」発売に先駆けたものである。
この日は当時のSPEEDWAYにとって重大な日になった。
小室哲哉から重要な提言が行われたのである。
それは、今のSPEEDWAYでは無理だというものだった。
おそらくアルバムのレコーディングを経て、ライブを行なった上での結論だったのだろう。
ウツと木根は、小室がこの時にSPEEDWAY解散を主張したと述べている(1996年「Only One Night Dream Away」MC)。
2015/4/17「TM NETWORKのオールナイトニッポン」では、小室が初めてこの件について口を開いた。
小室はたしかにあえてきつめに「SPEEDWAYは無理だ」と言ったが、その真意は必ずしも解散ではなかった。
すなわち6人という大所帯のバンド形式は古いから、もっと少人数に絞るべきだと言ったとのことである。
リーダーの木根とボーカルのウツ(と当然小室自身)を含む数人に絞ろうということだったのだろう。
「ドラムとか要ります?」などとも発言したらしい(ドラムのハタ☆ケンは小室の推薦もあって加入したのに…)。
SPEEDWAYはフリースペース時代以来、木根の音楽仲間によって継続的に活動を続けてきたバンドである。
木根は仲間みんなでバンドを成功に導きたいと思っていたに違いない。
そしてそれは、音楽的に不要なメンバーであっても切ることができない構造でもあっただろう。
だがシングルリリース後、アルバム発売直前になっても売れる気配がない現実を前に小室は、もうお友達だけで音楽をやっている場合ではないと感じたのではないか。
それは上の指示で動かざるを得なかったギズモ時代や、プロバンドのBOWWOWメンバーとともに活動した銀星団時代に培った、現実的な感覚だったのだろうと思う。
しかしウツと木根は、これを解散の主張と受け取った。
小室の考えは、他のメンバーには届かなかったようである。
リーダーの木根は、バンドの形態を捨てることに同意しなかった。
ましてや切り捨てるべきだとされたメンバーにとっては受け入れがたいものだっただろう。
しかも年下で、後から入ってきたヨソモノから言われたとなれば、なおさらである。
(さすがに小室もメンバー全員の前で発言したわけではなかっただろうが)
一部のメンバーが小室に対して良い感情を持っていなかったことは、木根も語っている。
別の時の木根の発言によれば、小室はSPEEDWAYをTMのルーツとする木根の考えに同意していないらしい。
おそらく小室が「オールナイトニッポン」でSPEEDWAYの改革提言の件を話したのも、SPEEDWAYとTMに直接の系譜関係はないということを述べたかったのだろう。
つまり大所帯のバンド形式ではなくメンバーを絞るという方針を実現させたのがTMであり、その点でTMは、むしろSPEEDWAY体制を否定した1980年の発言の延長にあると、小室は考えているのではないだろうか。
同じ頃に小室が始めたユニットであるSTAYは、レコーディングやライブの時に必要な人員をその都度集めるという形態を採っており、明らかにSPEEDWAY的な体制の対極にあった。
そしてTM NETWORKの体制は、このSTAYの系譜を引くものと考えられる。
実は小室は、1980年の間にすでにSTAYの活動を始めていた。
小室は1981/10/17のSTAYライブのMCで、「去年の暮れくらいに二回くらいやった曲を一曲やります」と発言しており、1980年の終わり頃にはライブを二回行っていたことが分かる。
当時の小室が考えていた音楽活動の形態はSTAYのような形であり、SPEEDWAY的なバンド形式は「古い」と感じられたのだろう。
おそらく小室は改革を拒否された後、なおしばらくはSPEEDWAYとしての活動を続けながら、脱退を視野に入れて次の活動を始めていたと考えられる。
その後SPEEDWAYは、レコード会社との契約期間を終えた。
その時期は明確ではないが、年度契約を結んでいたとすれば、1981年3月の契約切れを以って活動を一区切りさせた可能性が高いだろう。
木根は1981年4月頃、西条秀樹のバックバンドのポップンロールバンドで活動していたことが知られるが、これはSPEEDWAYの契約が3月で切れたことを受けたものかもしれない。
ウツは3月から数ヶ月後、サウスウェルというバンドに入っていた。
木根によれば、サウスウェルはSPEEDWAYの弟分のようなバンドだった。
1979/11/5に新宿ロフトでSPEEDWAYと対バンを行っており、遅くてもこの頃には活動を始めていたらしい。
その後1981年頃にボーカルが抜け、これを補う形でウツが加入したのだろう。
ウツが言うには、ここでは助っ人のような気持ちで歌っていたという。
「アサヒグラフ」1981/7/17付けの号の特集「屋根裏のロック」には、サウスウェルの写真が掲載されている(GAUZE氏提供資料による)。
ウツも含め全員Gパンで青のアロハシャツを着ており、写真はギターの立岡正樹のソロの場面らしい。
立岡は後のTM NETWORK二代目マネージャーで、現M-tres(ウツの事務所)の代表である。
撮影の日時は不明だが、ウツは6月頃にはサウスウェルにいたと見られる。
ただしSPEEDWAYは、プロ契約が終わり小室とウツが抜けた後も、ただちに消滅したわけではなかったようである。
春頃には、木根をボーカルとしてライブを行なったこともあった。
だがこれはうまくいかず、この体制はごく一時期で終わった。
SPEEDWAYは川村ゆう子のバックバンドとして活動することもあったが、ボーカルが不在になったことで、ライブを行なうことはできなくなったと考えられる。
サウスウェルはその後、「第22回YAMAHAポピュラーソングコンテスト」に出場した。
サウスウェルは「マイホームタウン」という曲で地区予選を通過し、関東甲信越大会まで進んだが、観客投票で落選してしまう。
最終的にサウスウェルは主催者推薦枠で、10/4に嬬恋村のつま恋エキジビションホールで行われた本選まで進むことができたが、本線では別のボーカリストが歌っている。
ウツは9月以前、地区大会を以ってサウスウェルを脱退したと見られる。
ウツの後、サウスウェルのボーカルは山本英美(男性)が務めたことが知られる。
嬬恋大会で歌ったのも山本だろうか。
サウスウェルは1982/7/25に吉祥寺シルバーエレファントで、SPEEDWAYと対バンライブを行なっていることも確認できる。
山本英美時代のサウスウェルはこの頃までは活動したらしい。
山本は後に1987年にソロミュージシャンとしてデビューし、現在まで木根と関係を持ち続けている。
なお「ポピュラーソングコンテスト」のグランプリは、アラジンの「完全無欠のロックンローラー」だった。
アラジンはこの曲で同年11/14にデビューするから、サウスウェルも優勝すればデビューできていたのだろう。
ただしその場合、TM NETWORKは生まれなかったことになる。
この時本選まで出場したバンドの曲は、LP「The 22nd Popular Song Contest」に収録された。
「マイホームタウン」は作詞石坂健一郎、作曲山田晃大となっている(GAUZE氏提供情報)。
メンバーとしてはボーカルの他にエレキギター2人、ベース、ドラム、キーボードが確認できる。
今後も日の目を見ることはないと思われるので、歌詞の一部を以下に引用しておこう。
ひとり暮しに吹き込む風は むねの中にしみるばかり
グレーな日々につかれた時は 古い写真に目をやるのさ
あけはなす窓つかの間だけ よごれた陽ざしあびてみても
ビルの谷間のこの部屋では 空の広さはわからないよ
My Home Town おまえだけ(Set me free)
俺から捨てた街なのに
My Home Town この想い(Love is gone)
心のすみからはなれない
以上の経緯を見れば、ウツは9月にはフリーの立場になっていたはずである。
ウツのサウスウェル脱退の話を聞いた木根は、ウツを再びSPEEDWAYに呼び戻した。
小室は10月17日に行なったSTAYのライブで、サポートの荒井カツミとハタ☆ケンを紹介する時に、「SPEEDWAYってのもまだあるんですよ。そのうちやるみたいです」と言っている。
この頃SPEEDWAYは実質的に活動休止状態だったが、再開予定(再開以前)でもあったようである。
そして後で見るように、SPEEDWAYは12月以前に活動を再開する。
つまりSPEEDWAYの本格的な活動再開は1981年10~12月の間だった。
以上のようにSPEEDWAYは1981年一時期休止状態になったが、10~12月頃のウツ復帰により活動を再開したと考えられる。
SPEEDWAY公式サイトには、1981年に解散したとは書かれておらず、小室が脱退してパーカッションの荒井カツミが復帰したという様に、メンバーの変更があっただけのように書いている(ウツの一時脱退にも触れていない)。
一度活動が中断しただけで、解散したわけではないと考えていたのかもしれない。
polytopeさんの情報によると、「ぴあ」からは1981年12月以降翌年まで、SPEEDWAYが渋谷・原宿などを拠点に、継続的に様子をうかがい知ることができる。。
(「0-3 小室哲哉と音楽の出会い」・「0-7 小室・木根・ウツその後 」コメント欄)
ただし1982年10月以降の情報は未確認である。
・1981/12/28小室哲哉 and STAY、スピード・ウェイ@渋谷屋根裏昼の部
・1982/1/17小室哲哉 and STAY、スピード・ウェイ@渋谷屋根裏昼の部
・1982/2/21 スピード・ウェイ@渋谷屋根裏昼の部
・1982/3/7 スピード・ウェイ@渋谷屋根裏昼の部
・1982/4/10 SPEED WAY@渋谷屋根裏昼の部
・1982/5/8 SPEED WAY@渋谷屋根裏昼の部
・1982/6/26 HELLO、WEEKIDS、SPEEDWAY@原宿クロコダイル
・1982/6/27 SPEED WAY@吉祥寺シルバーエレファント
・1982/7/25 サウスウェル、SPEED WAY@吉祥寺シルバーエレファント
・1982/7/26 SPEED WAY@原宿サンビスタ
・1982/9/11 坂本めぐみ、SPEED WAY@原宿クロコダイル
・1982/9/16 SPEED WAY、IKUMI BAND@立川38 avenue
これを見るにSPEEDWAYは、1982年前半までは渋谷屋根裏を、その後は原宿や吉祥寺を拠点としたらしい。
公式サイトによればこの時期のSPEEDWAYは、「屋根裏、EGGMAN、シルバーエレファント等ライブハウス」で活動したとされる。
屋根裏は渋谷、シルバーエレファントは吉祥寺のライブハウスで、ともに上記スケジュールに見える。
EGGMANは渋谷EGGMAN(1981年オープン)だろうが、上記には見えない。
他にも上記に記録されないライブ会場での活動もあったに違いない。
おそらくこの頃のことと思うのだが、SPEEDWAYは一部でコント、二部でライブを行なった。
これはウツのアイデアで、ずっとライブをやっていると行き詰るので、コントをやろうということになったという。
脚本はすべて木根が書いた。
木根がアマチュア時代のことと言っていることを重視すると、1979年のデビュー以前とも考えられるが、その頃には屋根裏での活動は確認できないので、一応今は活動再開期と考えておく。
(もちろんアマチュア時代の屋根裏ライブが現在確認できていないだけの可能性もある)
TM時代の木根は、コメディドラマ「日本一のバンド男」(1985年「TM VISION Ⅲ」)、ラジオ企画「TM NETWORK物語」(1987年「小室哲哉のSF ROCK STATION」)、イベント「Party Pavilion」(1992年)などで脚本を担当するが、その前提にはアマチュア時代のこうした試みもあったのである。
あるいは「CAROL」に始まる木根の小説家活動の前提として考えても良いかもしれない
気になるのは、この時期のSPEEDWAYと小室の関係である。
小室がSPEEDWAYの体制に批判的な発言をしたことを考えると、両者の関係には複雑なものがあったことも想像できる。
だが再結成当初のSPEEDWAYは小室哲哉 and STAYと対バンしていたし、岩野光邦・ハタ☆ケン・荒井カツミはSTAYのレコーディングやライブに参加したこともある。
全体として見れば、両者の関係は険悪だったというわけではないのだろう。
また2007年、小室の一声でTM NETWORKが再開した時にコンセプトとされたのは、あのままSPEEDWAYを続けてサードアルバムを作ったらどうなっていたのかということだった。
SPEEDWAYの曲がiTunesで配信されるようになったのを小室が聞き、曲の良さを再認識したことがきっかけだったらしい。
小室にとってのSPEEDWAYの位置が、この頃再浮上したようである。
小室がSPEEDWAY時代を肯定的に振り返ることは、これ以前にはほとんどなかった
だが2006年頃の小室は大量のプロデュースワークもやめ、DJTK名義で過去曲のリミックスを中心としていた頃であり、自らのルーツに対しての意識が高まってきたものと思われる。
(2006/8/5執筆 2006/11/24、2008/9/8、2012/11/27、2014/1/12、2016/10/3、2017/8/26追記)
この記事へのコメント
それはすごいお宝だなぁ…
P-MODELとかと一緒に出ているって、もちろん同列の扱いではないんでしょうけど、アマチュアにしては結構な扱いですよね
個人的にはP-MODELの写真も見てみたいですが…
さっそく記事を再更新しておきました
どうもありがとうございます
原日出子さんがトーク番組のゲストで話されていた一部の内容を思い出しました。
彼女によれば木根さんのバンドで歌ったりしていたようですね
バンドの機材搬入のお手伝いをしたり、一番驚いたのはウツさんとこの当時交際してた?と仲間内で噂になったこともあったようです。
彼女にとってはTMNはTOKYO(もしくはTAMA) MUSIC NETWORKの略だと懐かしく話されてました。
いかんせんこういった話は書かないでいるべきか控えるべきか少し考えました。
不適切でしたら削除してください。お許しください
原さんが木根さんのバンドで歌ったと言うのは、これだけ見ると木根さんが主で原さんが従みたいに聞こえますが、実際にはテレビ出演時に木根さんが後ろで演奏していたということでしょうね。西城秀樹さんのバックバンドに木根さんがいたみたいに。
原さんは1981年歌手デビュー、1983年結婚ということなので、81~83年、SPEEDWAYプロ契約解除後の話でしょうか。
ウツの交際の件は事実かはよくわからないですが、こういう話が出るのはなかなか珍しいですよね。
年明けから久しぶりに1からこちらを読んでますよ
ところで、どこかにコメントがあるのかもしれませんが
原日出子のことは電気じかけの予言者たちにも書いてありましたね
どの電気じかけかまではわかりませんが
木根さんの本て、ちょこちょこ古い話が突然出るんですよね。
索引があればなあ。
その内本をめくっている時に、偶然気が付くかもしれません。
まあ、ブログ本文に書く内容でもないですけどね。