4-29 TMN終わりの始まり

去る3/18・19日、小室さんのソロライブが行なわれました
咲花林のライブレポによれば、3/18福岡ライブでは熊本ライブのセットリストに、
「Many Classic Moments」「World Groove」「survival dAnce」「Boy Meets Girl」「寒い夜だから…」「Wanderin' Destiny」が追加、
「Time To Count Down」「I'm Proud」「I Believe」「Don't wanna cry」「愛しさとせつなさと心強さと」がカットされたようです


3/19の鹿児島ライブは詳細な情報がないですが、
パラダイス シフトのライブレポや、Keep Smilingのライブレポによれば、福岡ライブのセットリストに、
「愛しさと切なさと心強さと」「Overnight Sensation」「Don't wanna cry」「Fantastic Vision」「Resistance」「Beyond The Time」「Love Train」「Time To Count Down」
などが加わったみたいです
「Fantastic Vision」をやるのは、さすが九州ライブですね
(福岡の天気予報でまだ使っているらしいですから)


小室さん絡みでは、Purple Daysのアルバムもリリースされました
そろそろ小室さんが今まで書き溜めた曲もリリースされ始めると思います
まずはやしきたかじんでしたっけ…?
微妙なのから始まりそうですが、いい曲が出来ているといいですね


そしておそらく小室さんのライブとあわせたんだと思いますが、
小室みつ子さんが3/19にニコニコ動画で、
生放送「小室みつ子のGet Wild」を放送しました
残念ながら私は見られなかったのですが、ゲストはまた木根さんだったみたいです
その内見られるようになるといいなぁ…
ちなみに前回2/5放送分が公開されました
見逃した方は是非ご覧下さい
3/19分もプレミアム会員なら、番組終了後一週間は見られるみたいですね


では本編に入ります
いよいよ第4部の終わり、すなわちTMN黄金期の終わりに向かって行きます

-------------------------------
1991/9/5リリースの「EXPO」はチャート1位を獲得した
1987年の「Gift for Fanks」以来、
6作連続のアルバム1位獲得である


この頃の3人



以前触れた通り、小室はこのアルバムに関して、大変売上を気にしていた
そこでTMNはプロモーションに特に力を入れ、
レコーディング終了前後から、
それまでにないほど多くのTV・ラジオ番組に出演した


これはメディア出演にあまり積極的ではなかった「Rhythm Red」期と対照的である
CD業界におけるタイアップによる大ヒット続出という現実の前に、
メディア効果の大きさを最大限に利用しようとしたのだろう


メンバーは9月にツアーが始まるまで、
地方番組・バラエティを含む様々なところに顔を出した
小室がこの頃にクラブイベントを始めたのも、
当初はTMNのプロモーションも念頭に入れていたものと思う


そのような戦略の成果か、
「EXPO」の初動週間売上は38.8万枚で
TM史上の最高記録となった
おそらくこの記録は、今後も抜かれることはあるまい
幸先の良いスタートであった


ところが「EXPO」は、2週目には売上が8.3万枚に激減し、
先週同時に2位でチャートインした今井美樹「Lluvia」に逆転されてしまった
2週目までで「EXPO」は47.1万枚、「Lluvia」は51.8万枚で、
総売上でも逆転されている
「EXPO」の最終的な売上は64.8万枚で、初動の2倍以下となった
(なお「Lluvia」は93.3万枚)


1週目の結果に大変満足していた小室は、
2週目の結果を知って大変失望した
2週目には強力な新譜がなく、2週連続首位は確実と思っていたのだろう


小室は当時のラジオで、
身を粉にしてプロモーションしたのにこの結果と、悔しそうに発言し、
一方で浜田省吾はプロモーションしなくても売れるのをうらやましがっていた
(4日前発売の浜田省吾「Edge of the Knife」は77.1万枚の売上)


早い話「EXPO」は、初動売上では成功を収めたのに対し、
その後の展開で失敗したということになる
この点については、これ以前の作品と比較してみると、確かに首肯できる
試みに初動と総売上の比を取ってみると、以下のようになる

・1987年「humansystem」 10.9万枚/37.7万枚=29%
・1988年「CAROL」 20.5万枚/66.0万枚=31%
・1989年「Dress」 24.4万枚/54.4万枚=45%
・1990年「Rhythm Red」 29.2万枚/59.3万枚=49%
・1991年「EXPO」 38.8万枚/64.8万枚=60%


以上を見るに、初動売上の総売り上げに対する割合は徐々に上昇しており、
アルバム購入の層が固定化する傾向にあったことが分かる
1987~88年には最終的な売上が初動の3倍以上に達したのに対し、
1989~90年には2倍超になり、
「EXPO」では一週目で全体の6割を売ってしまう状態になった
完全に「初動型」といわれる、固定ファン中心のミュージシャンの型である


しかも総売り上げは「CAROL」を下回っており、
数字だけで見れば、リニューアルで離れたファンの一部が、
ポップスへ「復古」したTMNに帰ってきただけだったとも言える


もちろん実際には新規ファンもいたのだが、
その規模は足を洗ったファンの数を大きく上回るものではなかったのだろうし、
「Love Train」で新規参入したファン(←初動売上)はいても、
「EXPO」リリース後にファンが拡大する動き(←2週目以降)は、
ほとんどなかったのである


小室が「EXPO」で目指したのは広いファン層の獲得であり、
カラオケ需要への着目やアルバム収録曲の多様性も、
おそらくこれに基づくものだった
ところが実際にはアルバム購入者層はさほど広がっていなかったことが、
数字で示されてしまったわけである


おそらく従来のシングルの2倍近くを売った「Love Train」の成績も、
小室の「EXPO」への期待を高め、
それだけに失望の度合いを増すことになったのだと思う
仮に「Love Train」と同様に、
「EXPO」も従来のアルバムの2倍のセールスを上げれば、
ミリオンを狙うことも夢ではないはずだった
しかし「EXPO」がその期待に沿うことはなかった


試みにこれ以前のアルバムを、
直前の先行シングルの売上と比較しよう

「Kiss You」10万枚/「humansystem」37.7万枚=27%
「Come On Everybody」20.9万枚/「CAROL」66万枚=32%
「Time To Count Down」26.4万枚/「Rhythm Red」59.3万枚=45%
「Love Train」53.3万枚/「EXPO」64.8万枚=82%


1990年の「Rhythm Red」までは、
シングルを購入する人の2~4倍の人が、アルバムを購入していたことが分かる
これらと比較すると「EXPO」の数字は、
それまでとかなり異なっていることは首肯されるだろう


さらに言えば、「Love Train」「EXPO」を、
「Time To Count Down」「Rhythm Red」と比べれば、
シングル売上が25万増えたのに対して、
アルバム売上は5万枚しか増えていないことに気付く
シングルのみを購入してアルバムを購入しなかった層がかなりいたらしい
その点で「EXPO」は、「Love Train」の成果を十分に生かすことができなかった
つまり「Love Train」の成功ほどには「EXPO」は成功しなかった


ただし「EXPO」の売上が「Rhythm Red」を越えたことは事実であり、
TM史上で「CAROL」に次ぐ売上を実現した点で、
セールスの面では間違いなく彼らの代表作である
しかし以前言った通り、1991年からはCDバブルが始まっており、
単純に売上枚数の比較のみでは評価しづらいところがある


そこで業界内全体での位置を見るために、年間売り上げで比較すると、
「CAROL」は66万枚で1989年度年間5位だった
「Rhythm Red」は1990年度分は42.1万枚で年間24位だが、
これは集計期間の締めがリリース一ヶ月後だったためであり、
全売上59.3万枚が1990年度内に収まっていれば年間9位に相当する


これに対して「EXPO」は、1991年度分で62.7万枚、年間19位であり、
総売上64.8万枚で集計しても年間18位相当にしかならない
しばしばTMは「Rhythm Red」で失速したと言われるが、
実は業界内での地位低落に関しては、
「EXPO」の方が決定的だったのである


なお「humansystem」も総売上では1987年度14位に相当するから、
(年度末リリースなので、実際のセールスは1988年度にもまたがる)
「EXPO」の売上偏差値は「humansystem」以下となる
ブレイク当初の水準にまで落ちていたと見ることも可能だろう


「EXPO」のこの結果は、
一つには先行シングルが一枚しかないということも、
多少は関係しているのかもしれない


もしも「Love Train」の成績が、
小室の目論見通りカラオケ需要を取り込んだものだったとしたら、
そのような購買層にとってカラオケで歌う機会のないアルバム曲には、
さほど魅力を感じないだろう
それならばシングル1枚のみ買っておけば良いということになりかねない
当時のカラオケにはアルバム曲はほとんどなかった


ただし実は先行シングルとしてリリースすべき曲はあった
その楽曲とは「大地の物語」で、
カメリアダイアモンドCM「大地とエナジー編」で1991/7/20から放映された
これはシングルにはならず、聴くためにはアルバムを購入する必要があった


TMN側からすれば、CMで関心に持った者にアルバム購入を促し、
アルバムのセールス向上を目論んだ方策だったのかもしれない
だが結果としてのセールスを見る限り、これはあまり成功しなかった
「Love Train」というエサで引き付けた新規購買層は、
当然大部分がアルバム購入に到るものと思っていたのだろうが、
残念ながら彼らはエサだけ取って去ってしまったわけである


小室は後のプロデューサー期には、
ヒットシングル詰め合わせのアルバムを量産し、
シングル中心の製作体制に変わっていくが、
これはアルバムを中心としたTM期とは異なる方針である
「EXPO」の「教訓」を生かしたのかもしれない


いずれにしろファンが拡大しないと言う事態は小室を失望させ、
TMNの活動継続に対する意欲を失わせる一因となったと言われる
もちろんチャート一位常連の水準で、
3年間売上がほぼ一定しているというのは非常な強みでもあるのだが、
小室はそのような安定した状態を嫌う傾向が強い
数字によって示された「何をしても変わらない」という事実は、
むしろ負の要素と感じられたのだろう


小室は以後、TMN外に新たな可能性を見出そうとする
YOSHIKIとのコラボレーションユニットV2の企画も、
小室としては、すでにTMNが落ち目になっていて、
Xの方が勢いがあったという状況判断があったという


この企画は1991年夏頃には動き出していたらしいが、
特にチャートの結果に落胆した9月下旬以降の小室は、
まさにV2に可能性を求めていたのかもしれない


この頃は「Tour TMN EXPO」も同時並行で行なわれていたが、
「深層の美意識」によれば、小室の意欲はかなり低く、
むしろクラブイベントに熱中していたという
これはプロデューサー小室誕生の前史として書かれたものなので、
「EXPO」期を小室がTMNから離れて行く過程として、
事実以上に強調している可能性も考えられないではない
しかしこの頃に小室がクラブイベントに積極的だったことは事実で、
私が断片的に把握しているだけで30回以上の開催が確認できる


本当に小室がTMNへの意欲を失っていたのかは、
なかなか断言できないし、ファンとしてはそうは思いたくない
だが小室がウツ・木根と別のところでの活動を積極的に行なったのは、
ソロ活動に専念した1989年夏からの一年間はともかくとして、
それ以外の時期には見られなかった事態だった


そして1992年4月、「EXPO Arena」の終了後、
小室はウツ・木根から離れて活動するようになる
この前提には、事務所タイムマシンの社長交代(小室の解任)があるらしい
これは詳しくは第五部で触れるが、1991年終わり頃に決定的になったらしい
上記の小室の消極的な様子は、
あるいは小室の地位喪失後の状況が強調され叙述されたものなのかもしれない


いずれにしろこの後のTMNの活動は、
当事者の間でもまったくの白紙状態となってしまう
それは一時的であることを前提とした1989年のソロ活動期とは、
まったく異なる事態だった
ここに3人のフォーメーションは解体に至る


ただ3人ともこの時点ではTMNを終わらせるつもりではなかったし、
実際に活動再開の試みもあったのだが、
事実としてはこのまま1994年の「終了」という結末を迎えてしまう


TMNがこの結末への道筋をたどり出したのが「EXPO」期であり、
「EXPO」期の活動の終了とともにその道筋が明確になる
以下数章では、
この道筋をたどり出した頃の小室哲哉の動向を見ていくことにしよう


EXPO
エピックレコードジャパン
1991-09-05
TMN
amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by ウェブリブログ商品ポータルで情報を見る

この記事へのコメント

アザラシ
2010年03月29日 18:05
今思えば、ウツ・木根ちゃんとTMNをやるという選択をしていれば、よかったのにと思わずにはいられないです。このTMをやめるという選択が後のてっちゃんの運命を狂わせる遠因になったのかもって思います。
fe
2010年03月30日 18:24
こんにちは。

アザラシさんの言う通り、もしも「終了」しなかったら他と一緒にもっと盛り上がったかもしれないのに…と思うと寂しくなりますね。「終了」時・その後の小室先生プロデュースのウツのシングル・「Detour」にもアンビエントテクノの香りがしたので、その方面に本格的に進む道もあったのではないか?と当事者でないのにも関わらず考えてしまいます。
青い惑星の愚か者
2010年03月31日 01:24
小室さんがここでTMNから離れてしまったのは、本当にTMファンには残念なことです
まあ、可能性がないと思ったら、すぐに前に進むというのは小室さんの行動パターンですし、その行動パターンだったからこそTM NETWORKが生まれたともいえるので、なんとも微妙なところです

でももしもTMを続けていたら、1992年には何をしていたんだろう?と考えると、小室さんの中には浮かんでいなかったんじゃないかとも思います
だから結局1992年は、活動を休止するしかなかったのかもしれません
まさと
2010年03月31日 04:14
こんにちは。
もしもという話しならTMとは関係ないですが93年にtrfのアルバムEZ DO DANCEを作って、小室さんのソロアルバムも出すつもりだったんですよね。
結局、曲作りの過程でウツに合うんじゃないか、という曲が出来てそのソロプロジェクトは白紙になったみたいですが、幻の3枚目のソロアルバム、聞いてみたかったです(T^T)
青い惑星の愚か者
2010年04月08日 00:35
お返事遅れました
ソロアルバムは作ってたらしいですよね
歌入りの予定だったんでしょうか…?(汗)
個人的にはその後で予定されたTMN3枚目のアルバムを聞きたかったですが…
きっとその後にtrfとか篠原とかに使われたんでしょうね
TS
2010年04月09日 21:08
こんにちは。
EXPOの売り上げに小室さんがそんなに失望してたなんて初めて知りました…
飴やケーキを求めている客に、創作料理のフルコースを出してしまった感じでしょうか…?

幻となった一途な恋をリードシングルにしたアルバム、聴いてみたかったなぁ…
まさと
2010年04月10日 10:23
当時のインタビューでは、一途な恋の後、パイロット的にシングルを3、4枚リリースしてそれらを含まない新曲ばかりのアルバムを春には出すと言っていて少なくともこの時点では、小室さんもTMNをやるつもりだったみたいですね。TMNとしてラジオもスタートさせたりして、僕も新曲が出ると期待していたんですがねぇ。
ちなみにラストシングルのNight of~はそもそも、小室さんのソロアルバム用に作った曲なんですよね。それが製作過程でウツに合うだろうという事で、結果ラストシングルになってしまったそうで。
青い惑星の愚か者
2010年04月11日 04:32
>TSさん
当時のラジオでは、木根さんが小室さんを必死に慰めていました
駄々こねてふてくされている子供をあやす母親みたいな感じでしたね

>まさとさん
1994年に入る頃には、まだ3人ともTMNをやるつもりだったと思うんですよね
World Grooveが成功しなかったら、小室さんも終了には踏み出さなかったと思うのですが…
まっきー
2013年06月03日 12:53
今になると小室さんの求めるモノって何だったのかなと思います。TMの後、枚数的にはTMより売れた歌は沢山あるとは思いますが、それらが今になっても聞きたい曲かというと、そうでもないような。大量に消費される事だけが目的なら、ただルックスの良いアイドルに、もっとわかりやすい、歌いやすい曲を作り続ければ、小室ブームの寿命も延びたのでは?と思います。例えTMのファンが固定客でも、1万のコンサートチケットがあっという間に売れるくらいなら十分だと思うのに。小室さんのマニアな曲が誰もが知るメジャーな曲になり、どこ行ってもチヤホヤされて、日本のみならず世界でポピュラーになる事が小室さんの野望だったのでしょうか?
何か実現し難い両極を追い求めた人に思えます。
青い惑星の愚か者
2013年06月06日 02:52
この時の小室さんの方向転換については、TMファンの方はだいたい否定的にとらえるのですが、一方で小室さんの上昇志向=安定拒否の姿勢がなかったら、そもそもTM NETWORKみたいなユニットは生まれなかったのではないかと思います
創作をうながす刺激が常にないといけない方なんでしょう
だからTKブームで国内を席巻してしまった後は、海外に目を向けないと動機が持たず、しかしそんな無謀なことをしてしまったばかりにいろんな混乱が起こってブーム終焉と窮乏…という流れなんでしょう
zenrin
2015年03月10日 03:09
この記事のタイトル、英訳すると!!
青い惑星の愚か者は電気仕掛けの予言者だった?
青い惑星の愚か者
2015年03月14日 17:18
おおー、なんか偶然春ツアータイトルになっていますね
よくぞ気づいてくださいました(笑

この記事へのトラックバック