7-1 あがく小室哲哉
PANDORAのシングル「Be The One」は、チャートで2位―16位―26位―38位―60位と推移し、売り上げは4.8万枚になりました。
ミニアルバム「Blueprint」は9位―102位―205位で、現在の売上は7046枚です。
アルバム10位内は、実にTMの「Quit30」以来4年ぶりとなります。
ただシングルの方が圧倒的に成績が良いです。
これは「仮面ライダー」のタイアップ効果の強さを示しています。
現在公表されている小室さんの唯一の仕事であるラストアイドルのプロデュース企画につき、「ラストアイドル」では2/25に3戦目が放送され、小室さんはつんく♂さんに敗れて2勝1敗となりました。
この時は小室さんがスタジオでメンバーと話すシーンが放送されました。
収録は2/6「うたコン」の生放送よりは後でしょうから、現時点で最新の小室映像ということになります。
しかし今まだスタジオで何かやることってあるんでしょうか。
いや、むしろあるならばうれしいんですけどね。
2/20、小室さんがtwitterのアカウントを消去しました。
小室さんは2010年の音楽活動再開以後、自らの声を発信する場、またはファンの声を聴く場として、twitterを継続的に活用し続けてきました。
その閉鎖は引退の意思を感じさせるものとして、ファンの間に少なからぬショックを与えたようです。
コメントなどは何も出ていませんが、なおネガティブな状態が続いているものと思います。
木根さんは舞台「新☆雪のプリンセス」に出演しました。
公演初日の2/21、出演者たちが記者会見を行ないましたが、この時木根さんには記者から、twitterの件も含めて小室さんについて質問がありました。
木根さんはこれに対して、以下のように答えたようです。
余計なことはいわず、小室さんを追い詰めないようにマスコミにお願いした感じです。
またこのコメントを見るに、木根さんは今はコメントできないことを含む今後のことを、小室さんと話をしているようにも見えます。
TMについて、方針のようなものは立てられたのでしょうか。
木根さんは先月末のTREE of TIMEの会報でも、小室さんにはゆっくり休んでほしいという趣旨のコメントをしたそうです。
木根さんは、3/1~11に東京築地本願寺で上演される舞台「こと~築地寿司物語~」続編の主題歌・挿入歌を担当し、3/5にはゲスト出演もするそうです。
木根さんは「築地寿司物語」の前作でも主題歌・挿入歌を担当したそうですが、私全然覚えていないので、多分当時情報を見逃していたんでしょうね。
木根さんはさらに3/17に上野御徒町のフォーク居酒屋「旅のつづき…」で、堀江淳さんとのジョイントライブ「Folk Songの夕べ」を開催します。
4/8には福岡県の飯塚市オートレース場で「遠賀川フェス飯塚」に出演します。
ウツは2/28にアルバム「mile stone」が発売になりました。
これに合わせて「Get Wild Pandemic」のMVが公開されています。
またBlu-ray「Phoenix Tour 2017 ξIdiosξ」は、一般発売日が4/18に決まりました。
以上、近況でした。
さて、今回からいよいよ2年ぶりに、通常記事の更新を始めます。
あらかじめ言っておきますが、これまででも最悪の内容です。
しかも小室さん関係の記事です。
実はこの記事、1月には用意していたんですが、ちょうど小室さんの報道がかぶってしまい、公開を見送っていたものです。
不倫やら音楽活動の不振やら、不思議なほど先日の報道・会見とかぶる内容でしたし、興味本位で見に来られてネット記事のネタに使われるのもイヤでした。
ただオリンピックを挟んで報道もひと段落し、小室さんの件は世間ではほぼ取り上げられなくなりました。
今後見に来るのは、だいたい小室さんの音楽に興味がある方々と思います。
そこでそろそろ、通常記事のアップを始めることにしました。
現役ファンの中には、今こんなの出すなと思う方は必ずいるでしょう。
心情的に今思い出すのはつらいというお気持ちはよく分かります。
私も書いていて楽しくはありませんでした。
ただ小室さんが引退した今だからこそ、かつての歴史をちゃんと残しておきたいとも思います。
これまでTMが何をしてきたのか確認しようと思う方が現れた時、現状では2002~08年の活動が一番調べづらくなっているので、この頃何があったのかはちゃんと整理しておくべきではないかとも思うのです。
もちろん今回の内容はアレですが、あくまでも21世紀のTMの歴史を書くための序章としてご理解ください。
私も小室さんを落としたくて書いているわけではありません。
ただ事実は事実として、隠さないで書くべきだと思います。
音楽に限らずいろんな分野のファンサイトに、しばしば信用がおけないことがあるのは、誇るべきところをことさらに強調する一方で、隠したいところを語らないことがあるというのもあります。
そういうところに気づいてしまうと、「ここに書いてあること信じて大丈夫かな?」と、私などは思ってしまいます。
ファンサイトはアーティストを顕彰して広めるべき場だというご意見もあるかもしれません。
ただ私は別にファンサイトのつもりでやっているつもりはなく、それよりは過去のTM NETWORKの歴史をまとめたいという意識でやっています。
ですので、私は歴史としての精度を上げたいので、今回は最悪の過去があったから、最悪の過去を書きます。
内容的には、熱心なファンの方には読むに堪えないかもしれませんので、そのような方はここで引き返していただいた方が良いかもしれません。
半年くらいすれば、まあまあ楽しかった20周年の頃にたどり着くはずなので、その頃にまたお越しいただければと思います。
以上、予告でした。
では最悪記事の本題に入ります。
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小室哲哉の人生の転換点は何度かあったが、特に大きな転機は、1983年、1992年、2001年、2008年だったと思う。
1983年はTM NETWORK結成、1992年はTMNから離れた活動の開始で、小室のプロデューサー人生の始まりとなる年だった。
2008年は言うまでもなく、小室哲哉の逮捕である。
2001年は以上と比べると地味ではあるが、やはり間違いなく転機となる年だった。
その一つとして、この頃にアメリカ永住権を放棄したことがある。
小室は永住権の保持のため、長期的な日本滞在を行なうことができず、これが1999~2000年のTMの活動の障害にもなっていた。
だが2001年からは日本を拠点を戻すようになる。
1998~2000年の小室は所得税や住民税をアメリカに収めていたが、これ以後は日本に納税するようになった。
そしてもう一つは、小室が事実上この年に、音楽プロデューサーとしての生命を終えたことである。
それはすでに失速していたTKブームの最終的な終焉も意味した。
もちろん以後も小室はプロデューサーを名乗り続ける。
しかしその仕事の多くは、Gaballやglobeなど自身が属するユニットの仕事だった。
活動を休止していたTM NETWORKやKiss Destinationもその点では同様である。
プロデュースを行なったものとして、小林幸恵、R9、Female Non Fictionなどの事例もあるが、いずれもシングルのリリースのみであり、セールスは振るわなかった上、長続きもしなかった。
「ASAYAN」企画絡みの小林以外は、楽曲的にもGaballやglobeの延長に過ぎなかった上、世間的にもほとんど認知されなかった。
avexや吉本の企画版の制作にたずさわった例もあるが、これはすでに小室主導の企画とは言い難い。
ROJAM関係では、2000年に引き続き2001年にも中国人歌手のオーディションとプロデュースを行なう計画だったが、結局立ち消えになり、実現しなかった。
2001年のKENや2004年の葉明子など、台湾・香港人の単発プロデュースは依然としてあったが、あまり目立つものではない。
ただその中でも2002年香港映画「恋愛中的宝貝」や、2004年日中国交正常化30周年記念ドラマ「世紀末的晩鐘」の音楽監督などの仕事は、ROJAMの活動がようやく実を結んだものといえるかもしれない。
数少ない小室主導企画と思われるものに、TRFとBALANCeのメンバーで結成されたzentoがあり、クラブ向けプロモーション版シングルとして「zento ep.1」が制作されている。
だがさしたる反響もなかったようで、単独商品化には至らなかった。
(一部楽曲が2002年「Song+Nation」に収録)
BALANCeは自然消滅し、TRFもしばらく活動を休止する。
以上のように小室の新たなプロデュースワークは、いずれも短期的なものとなった。
もちろん以前から続いていたものもある。
安室奈美恵と鈴木あみの2人であり、2000年の小室は事実上この2人の存在によって、プロデューサーとしての実質を保っていた。
しかし両者も2001年には、ついに小室から離脱する。
安室は2001年年始の「Rendez-vous in Space」での厚遇を見ても分かるように、小室が期待するところは依然として大きかった。
2001年に計画されていたアジアツアー(TM等も参加することになっていた)でも、安室を前面に出すことが強調されていた。
しかし2000年の安室は「Never End」が64万枚というスマッシュヒットを出したにも関わらず、本作を収めた2000/12/20リリースのアルバム「break the rule」は33.5万枚のセールスに留まった。
前作「Genius 2000」が80.3万枚だから、1年で半減してしまったことになる。
チャートでも1996年の「Sweet 19 Blues」以来の安室の指定席だった1位を取ることができず、TKの神通力が尽きたことを感じさせた。
安室はもともと小室によってデビューしたものではなく、一定の成果を上げていたところに小室が絡んだという経緯もある。
事務所側では落ち目の小室から離れることも選択肢に入っていただろう。
おそらくその様子見として2001/8/8には、デンマークのJeanett Debbのカバー曲「Say the Word」をシングルでリリースしている。
本作には小室も、小室の知人として安室を共同プロデュースしてきたDallas Austinも関わっていない。
本作は実質的に最後のTKプロデュースシングル「Please Smile Again」(21.7万枚)を下回る18.4万枚の成績だったが、それにも関わらず小室のプロデュースはその後も復活しなかった。
2001/12/27には安室&Verbal名義で小室作曲の「lovin' it」がリリースされたが、これはavex traxの企画盤としての位置づけである。
本作以後2017年のラストアルバム「Finally」の「How do you feel now?」まで、小室から安室への楽曲提供は長く途絶えることになった。
2002/2/14には元D-LOOPの葉山拓亮が作曲、安室自身が作詞を手掛けた「I Will」がリリースされている
その後の安室はベストアルバムをリリースしながら、新ユニットSuite Chicでの活動も行なうなど、新たな活動を模索する。
その結果安室は2004年頃から人気を回復させ、以後2018年の引退まで、旧TKファミリー唯一の“現役”歌手として、邦楽界のトップアーティストとしての地位を保持し続けた。
そうした中で2009年にリリースしたアルバムのタイトル「PAST < FUTURE」は、脱小室の成功を高らかに誇ったものとも言えよう。
安室は活動の中心も、テレビからライブに移す。
たとえば上記アルバムを引っさげた2010年の「PAST < FUTURE tour」では、1年で全国80カ所を回っている。
この頃にはライブでも小室の曲はまったく歌われなくなっていた。
なお安室の事務所ライジングプロダクションは、2001年に入り東京国税局から脱税の疑いが指摘された。
社長の平哲夫は8月に辞任(10月逮捕)、2002年には懲役2年4ヶ月の実刑判決を受けている。
これを受けてライジングプロダクションは、9月に社名をフリーゲートプロモーションと改めた。
(現在はライジングプロダクションに戻っている)
平は安室のデビュー以来バックにいた人物であり、その逮捕は安室の小室プロデュース離脱にも影響しているのかもしれない。
一方の鈴木あみの事務所も、ライジングプロダクションと同様の状況にあった。
あみははじめ山田衛志(永司)のエージーコミニュケーション所属だった。
1999年にはその系列会社に事務所を移すものの、実質的には依然として山田の影響下にあった。
山田は1999年から脱税疑惑で東京国税局から査察を受けており、2000年3月に告発され、7月に逮捕された。
2001年4月には、執行猶予付きではあるが有罪判決を受けている。
小室の凋落と並行して関係者が相次いで脱税で逮捕されるのは、何か関連があるのだろうか。
エ―ジーコミュニケーションは他にも、Marc Panther、dos(asami含む)、tohkoなど、小室関連ミュージシャンの多くを抱えていた。
1998年から小室がセールスを激減させたことは、エ―ジーコミュニケーションの資金繰りにも影響を与えていたのだろう。
鈴木あみは1998年7月から2000年4月までの1年10か月で、11枚のシングルと3枚のアルバムをリリースしており、TKプロデュース群の中でも特にハイペースだった。
だがその後は2000年9月のシングル「Reality」以外にリリースがない。
これは山田の逮捕が影響していたのかもしれない。
これ以前から鈴木あみと事務所の間では、待遇をめぐって問題が起こっていたらしい。
2000年10月にはあみの親が翌年3月以後の専属契約更新拒否を通告し、12月には東京地裁に事務所を提訴した。
(あみは未成年だったため、両親が提訴)
さらに2001年6月には、SONYをも提訴している。
あみは2000年のクリスマス頃にアルバムを出す計画があったが、この一連の騒動でそれも立ち消えになる。
両親によれば、あみへの報酬支払いが不当に低かったらしい。
裁判ではほぼあみ側の主張が認められたものの、あみと新たに契約する事務所はなく、芸能界で「干される」こととなったことは周知の事実である。
小室が吉本に移籍した後、あみを吉本が受け入れる話もあり、その場合は小室のプロデュースが続くはずだったのだろうが、これも実現しなかった。
結局あみは2005年にavexと契約して芸能界に復帰する。
こうしてプロデューサーとしての小室の活動は、実質的に2000年を以て終わりを告げた。
小室の音楽歴を大まかに分類すれば、80年代がTM NETOWORKの時代、90年代がプロデューサーの時代、00年代がTMを含む自己ユニットの時代と言える。
鈴木あみの退場は、小室の進退に大きな問題を引き起こしたらしい。
小室は2000年に拠点をSONYからROJAMに移し、TM NETWORKとKiss Destinationは、SONY傘下のTRUE Kiss DiSCからここに移籍させた。
ただしROJAM立ち上げ後も、小室はSONYと絶縁したわけではなく、依然として専属契約を続けていた。
ROJAMはネット通販でCDを販売したが、これはSONYとの協議の上で認められたものであった。
(店舗販売の禁止もSONYとの協議の結論)
小室がSONYとただちに手を切ることができなかったのは、おそらく前払いで受け取っていたプロデュース契約料があったためだろう。
これは後述する通り、2001年初めの時点で18億円が未消化(前払い分の成果を出していない)の状態だった。
TMとKiss Destinationの移籍後も、小室は鈴木あみのみはTRUE KiSS DiSCに在籍させた。
小室は前払いで受け取った印税分の成果を出す必要があり、そのため旧TRUE KISS DiSC所属ミュージシャンの中で、もっとも多くのセールスが期待できるあみを残したのだろう。
ところがそのあみが、芸能界から離れざるをえなくなった。
ここに小室はSONYから前払いされた18億円分のセールスを出す見込みを失った。
すでに落ち目だった小室が、18億を稼ぐ歌手を新たにプロデュースする見込みがあると考える者は、多くなかっただろう。
ここにSONYは2001年1月、小室哲哉に専属契約の解約を通告し、18億円の返却を要求してきた。
この直前の2000年12月には、TM時代以来小室をバックアップしてきた丸山茂雄が、SONYの音楽部門であるSONY Music Entertainmentの代表取締役社長を退いているが、この新体制下のSONYで、小室の切り捨てが決められたのだろう。
小室は2000年のROJAMによるIT事業参入でかなりの資産を消費していた。
すでにSONYからの前借金もつぎ込んでいたようで、18億円の返却要求はかなり過重なものだったと考えられる。
同年に吉本に移籍した5月頃、小室の預金は1億円余りしかなかったという報道がある。
その真偽のほどはともかくとして、少なくとも18億円を一括返却するほどの資産は残っていなかったと見られる。
小室は2000年12月にavexから、10億円のプロデュース契約料を前払いで受け取っている。
SONYの契約解除を見越して、18億円返済の原資に充てようとしたものか。
これを受けて小室は「Tour Major Turn-Round」を終えた1月、globe「outernet」のレコーディングに入る。
本作は3/28にリリースされた。
2001年以後の小室はglobeを活動の核とするようになるが、これはプロデュース契約料の前借も一つの理由だろう。
そうした中でTMの活動が見られなくなったことを考えれば、SONYをめぐるいざこざは、めぐりめぐってTMにも影響していたともいえる。
なおavexの前払い分10億円は、2004年末までの4年間で3億1000万円しか消化されず、小室はavexからその履行を厳しく要求されている。
この結末を見る限り、SONYが逸早く18億円を取り返したのは、経営者の立場としては正解だったことになる。
「outernet」リリース1ヶ月の2001/4/25には、Kiss Destination「AMARETTO」がリリースされた。
TMツアー終了後、小室は2枚のアルバム制作を立て続けに行なったのである。
本作はROJAMではなく、ポニーキャニオンからのリリースとなった。
「AMARETTO」のリリースをめぐっては様々な動きがあった。
アルバムのプロモーションも兼ねてだろうが、リリース日の4/25にKiss Destination相方のasami(吉田麻美)の妊娠と、小室との結婚を発表したのである。
2人は1998年から付き合ってきたから、実に3年越しのゴールだった。
「AMARETTO」リリースに先立つ4/20には、もう一つの重大な出来事があった。
小室哲哉の吉本興業とのマネージメント契約である。
5/1には小室が麻美との婚姻届けを区役所に提出した上で、新宿のルミネtheよしもとで吉本興業入りの記者会見を行なっている。
この移籍は、もちろん1月のSONYとの専属契約解除を受けてのものである。
実際に小室と吉本の交渉は、1月頃から始まっていたと言う。
おそらくこれと絡むものだろうが、小室は4月頃から、バラエティ番組に続けて出演している。
4/08「笑う犬の冒険」、4/15「堂本兄弟」、4/24「さんまのまんま」などである。
それにしても「なぜ吉本!?」と、多くの者は思っただろう。
私も大阪で笑顔の小室の横に「みんなヨシモトへおいでヨ」と書いてあるなんばグランド花月の巨大な看板を見た時は、「ここまで迷走するとは…」と眩暈がしたものである。
(なおこの写真、今では逆に手に入らなくなっているので、お持ちの方がいらっしゃったら、コピーしていただけると幸いです)
ただこの時はむしろ吉本側が、小室周辺にきな臭い人物が多いことを危惧していたとも言う。
ROJAMのIT事業参入から1年を経たこの頃、カタギとは言いがたい吉本からすらこのように思われるほど、この頃の小室にはうさんくさい人脈が形成されていたらしい。
5/31には、吉本がレコード会社R&C JAPANを設立した。
吉本は小室移籍を契機に、音楽事業にも本格的に手を伸ばすようになったのである。
小室の新ユニットGaballの作品は、ここからリリースされた。
同じ5/31には、ROJAMが香港のベンチャー市場GEMに上場し、1株1香港ドルで9000万株の株式を発行した。
1香港ドルは当時約15円だから、このまま売れれば日本円で13.5億円を調達できるはずだった。
だがその株価は、上場から半月で半額に下がるほどの急落を見せた。
年末には上場時の1/10の0.1香港ドル、翌年7月26日には0.075香港ドルとなっている。
小室が経営から撤退する2004年には0.09香港ドルまで持ち直しているが、最後まで大きな改善はなかったと見られる。
ROJAMは上場以前に10億餘の株式を発行していたが、その42.36%(約4.68億株)は小室が持っていた。
(なお以前は当時の報道に基づき小室の株式保有率を43.36%としていたが、ROJAMの資料により42.36%と修正した)
当時の週刊誌はROJAM株の暴落により、小室が74.5億円の含み資産を5.4億円まで減らしたと報じている。
よく言われるROJAMによる小室の70億円の損失とは、この試算に基づくものだろう。
この話は拡大解釈されて語られることが多いので、一応ここで確認しておきたい。
なお試みに上記の情報から、2001年5月と2002年7月の小室保有株式の資産価値を概算すれば、以下のようになる。
ただしばしば小室がROJAMで借金を負ったとされるのは、多少留保が必要である。
たしかに小室は株価暴落によって資産を大幅に減らしたが、株式による資産がゼロに近づくことはあっても、マイナスにはならないはずである。
また、実は上場前のROJAMの株は2000年7月頃まで、1株0.1香港ドルで取引されていた。
8月以後は1株0.8香港ドルに引き上げられたが、これは相当強気な設定である。
ならばROJAMの株価が上場後に0.1香港ドルまで下落したのは、暴落というよりは、上場時に実情と乖離した評価額で株価が設定されたため、市場の原理に従って適正価格に押し戻されたというべきだろう。
小室を含むROJAMの経営陣の判断が甘かったというべきである。
そして小室の持ち株は大部分が初期に取得したもので、1株平均で0.112香港ドルを出資していた。
となると小室の持ち株の価値は、もともと8億円程度(4.68億株×0.112香港ドル)に過ぎなかったと考えられる。
またこの株式取得にあたって現金の形で出資した額がどの程度だったのかもよく分からない(8億円と等価とは限らない)。
いずれにしろ、70億円の出資額が一瞬で溶けたという理解は修正が必要である。
ROJAMが1株1香港ドルで上場したことで、たしかに小室の持ち株は70億円以上の価値を持ったかもしれないが、それはもとより一時的なものであったと見るべきである。
ただ小室の場合、ROJAMへの投資も含めて、現金資産を各方面で消費してしまったため、SONYの18億円返済の要求に対応できなくなったのが問題だった。
小室の借金は直接にはこの返済のために生じたもので、2009年の公判で借金の経緯としてROJAMの件が言及されなかったのもそのためである。
しかしこの18億円の件は、5月末の上場と関係しているのかもしれない。
2009年の公判によれば、SONYへの返却期限は5月頃だったというので、タイミングとしては関係がありそうにも見える。
経営者が数億単位で自社株の売却を行なうのは立場上困難だが、ROJAMは上場時に8億もしくは10億の資金調達を目指すとされており、これを小室の返済につなげる何らかのからくりが想定されていたのかもしれない。
もちろんその皮算用は、まったく絵に描いた餅となった。
なお一部サイトで小室が上場後も増資を繰り返していてたという推測がされているが、これは小室が上場以前からすでに4.68億株を保有していたことを見落としたことによる誤解である。
実際には2002年にも小室の保有株式数は変わっていない。
2004年の取締役辞任まで現金化もほとんど行なわず(1割ほどは譲渡したらしいが)、4億株以上を保有し続けたと見られる。
さて、小室はROJAM上場の失敗により、SONYへの返済金18億円を別途確保する必要に迫られた。
avexからの前借金10億円はあったが、その他に8億円を用意する必要があった。
返済期限は5月だったが、SONYに待ってもらったものだろうか。
この返済は、別のところから借金をすることで果たされた。
8月に自らの著作権を担保にして、富士銀行から10億円の融資を受けたのである。
ここに小室はSONYに対して負債はなくなったが、代わってavexと富士銀行への借金を各10億円、計20億円負うことになり、その返済は後々まで小室を苦しめた。
小室の不幸の種はまだ蒔かれ続ける。
2001年5月に麻美と結婚した小室だったが、それから一年もしない2002年3月に離婚したのである。
2001/9/22麻美との間に娘が生まれたが、小室はこの頃からKEIKOとも関係を持つようになり、それが麻美に知られたことで離婚となった。
その際に小室は、莫大な慰謝料と娘の養育費の支払いに同意した。
(前年の結婚以後の資産増加はなく、財産分与は問題にならなかったか)
2009年の公判によると、小室は慰謝料3億7000万円を3回に分割して支払い、加えて娘が成人する2021年まで、月200万円から390万円の養育費も支払うことになっていた。
さらに報道によれば、2004年の小室は、麻美のマンション家賃として月150万円も支払っていた(どんなマンションだったのだろうか)。
養育費+家賃で月400万円という情報もあるので、月200万~390万円という情報に見える390万円とは、家賃を含む支払い総額を言っているのかもしれない。
仮に養育費を19年半の支払いとして、毎月390万円の支払いとすると総額は9億1260万円となり、これに慰謝料3億7000万円が加わる。
離婚後の報道で総額10億円以上と試算されたのは、麻美は否定していたが、実際には妥当なところと見られる。
すでに小室の財政が火の車となっていたにもかかわらず、巨額の慰謝料・養育費・家賃の支払いが発生したことは、ボディブローのように小室を苦しめただろう。
さらに2001年「Rendez-vous in Space」開催に当たり小室が自腹で3億円を支出するなど、この頃からは数億円規模の不可解な金銭の流れが続出する。
毎年数億円の印税を得ていた小室だったが、それにもかかわらずこうした悪条件の中で、借金は増大していった。
大規模出費の例としては、2001年の早稲田大学の小室哲哉記念ホール建設がある。
これは早稲田大学創立百周年に因んだものである。
9/18にはオープニングセレモニーとして、小室のピアノコンサートが行なわれている。
(キーボード久保こーじとギター松尾和博も参加)
その寄付金は数億円規模で、一説には10億円ともいう。
これによって早稲田中退の身だった小室は、卒業生として「校友」の称を名乗ることが認められた。
ただこのホールの建設は4月にはかなり進んでいたようで、かなり早い段階で動いていた話だろう。
よって2000年以後の動向として見るべきではないかもしれないが、他に機会もないので、ここで触れておくことにする。
なお小室は2001/4/14の早稲田大学創立百周年式典に出席した時、記念歌として小室作曲の「ワセダ輝く」を披露している。
一般流通には乗らなかったが、当時このCDは早稲田大学で売られたらしい。
さて、このような中で小室が心酔した人物がいた。
自称霊能力者の細木数子である。
小室は日本にいる時に頻繁に細木に会いに行き、アドバイスを受けていた。
小室は細木を「数ちゃん」と呼んでいたと言う。
その依存度を高めたのは2000年頃らしく、2000年12月から2001年1月の「Tour Major Turn-Round」の頃には、小室の左手首にTKの入れ墨とともに六芒星の入れ墨が入っている(現在も入っている)。
これは細木の六星占術に基づくものである。
この入れ墨は2000年7月末の「Log-on to 21st Century」のパンフレットの写真では入っていないので、2000年後半に入れたものと考えられる。
10月には小室がBBSで六芒星を話題にしており、この頃に入れ墨を入れるまでに至ったものか。
この頃はネット通販の件でファンから批判されたことや、軌道に乗らないROJAMの経営の件などで、小室も精神的に摩耗していたのかもしれない。
小室はそこに付け込まれてしまったのだろう。
2000年代に見られる不可解な判断の一部には、細木にそそのかされて下されたものもあるに違いない。
この頃の小室にとっての細木の存在の大きさを示すのは、結婚に関するアドバイスだろう。
小室は2002年、KEIKOを連れて細木に結婚の相談に行き、細木の後押しを受けて結婚を決意したというのである。
麻美との離婚発表日やKEIKOとの結婚式の日取りも、細木のアドバイスで決めたと言う。
実は小室はこれ以前、麻美との結婚の決断に当たっても、細木から言われていた婚期が一つの判断材料になっていた。
結局この結婚は1年もせずに破綻するが、それにもかかわらず小室は細木を疑うことがなかった。
むしろ結婚相手の相談を細木にしていなかったことが問題だったと考え、KEIKOを連れて行くようになった。
個人的にぞっとしたのは、木根の「新・電気じかけの予言者たち」に見える以下のエピソードである。
2002年初め、globe「Lights2」レコーディングのためにフランスに渡っていた時のこととして、以下のように書かれている。
こうした小室の霊能力パフォーマンスは、細木の影響と考えられる。
当時のglobeのメンバーやスタッフの間では、小室の茶番に乗って盛り上げないといけない空気が形成されていたのだろう。
KEIKO・Marcが音楽面で小室に意見できる位置になかった以上、小室を盛り上げることだけが彼らのできることだったともいえる。
(一方で独自の信仰を持つ木根のいるTMではそれができなかったのだろう)
また仮にKEIKO・Marcが本心からこれを信じていたのだとしても、それはそれで気持ち悪いことこの上ない。
当時小室は、globeは風水が良いなどと発言しており、細木への傾倒は音楽活動の内容にも影響していたように見える。
すでにROJAMの事業は暗礁に乗り上げていたし、妻の麻美とは別居して離婚協議を進めていた頃でもあった。
小室は公私ともに精神的に追い詰められていた可能性がある。
細木との関係はたまたま表に出ているものだが、おそらく他にも同様のうさんくさい関係は、この頃たくさん形成されていたに違いない。
そして精神的に弱っていた小室は、細木の如き輩に操られて判断を狂わせ続けたものと思われる。
こうして見ると2001年前後は、プロデュース歌手の消滅、麻美との結婚と離婚、SONYへの18億円返却、avexからの10億円前払い、ROJAMの上場、富士銀行からの10億円融資、細木数子への傾倒など、後の小室没落の種が一挙に揃った時期でもあったことが分かる。
この点でも2001年は一つの転機だったと言える。
そうした中で霊能力話にも対応し続けたKEIKOは、小室にとって心を許せる存在でもあったのだろう。
KEIKOも小室と一緒に細木の下に通うようになった。
そして2002/10/6、小室とKEIKOは結婚を発表する。
3/15の離婚発表以来、半年余のことだった。
法的には問題ないとしても、世間的にはあまり評判のよくない話題だった。
しかし小室はだからこそ、KEIKOにみじめな思いをさせないように、麻美以上の晴れやかな場を与えたかったのだろう。
小室は細木の決めた11/22「いい夫婦の日」に婚姻届を提出し、靖国神社で結婚式を行なった上で、新高輪プリンスホテルで結婚披露宴を行なった。
この披露宴はTBSの特番で、「超豪華! 世紀の結婚披露宴」と題して生中継された。
招待客は800人程度で、森喜朗元首相や音楽関係者の他、旧TKファミリーや(義理参加と思われる)吉本芸人も多く参加した。
異彩を放っていたのは内田裕也ファミリーだが、これは言うまでもなくTMデビュー前の小室の縁である
受け付けは、友人代表としてウツと木根が行なった。
余興としては、YOSHIKIの「seize the light」ピアノ演奏や、南こうせつ&木根尚登の「妹」弾き語りが行なわれ、最後には小室&KEIKOによる「Departures」が披露された。
この時の挙式費用は、5億円とも言われている。
実際には放映権料の収入やご祝儀で多少は取り返しているのだろうが、それでもすでに火の車だった小室の財政にさらなる圧迫となったことは想像にかたくない。
そしてこれが、小室のイベントがマスコミで「豪華」と呼ばれる最後となる。
なお小室の納税額より見るに(2002年2.4億円)、この頃の小室の年収は5億円ほどと見られ、一度の結婚式で年収すべてをつぎ込んだことになる。
納税後の手取り収入は2~3億円だったはずで、さらに慰謝料・養育費の支払いと銀行への返済もあったのだから、この年は数億円規模の赤字計上だったと見込まれる。
以上、小室哲哉周辺の動向を見てきた次回はこの時期の小室の音楽活動を簡単に追って行こう。
正直、多くの人には(自分も)ほとんど興味がないと思うので、一回で終わらせたいと思う。
(2018/3/4執筆、2021/12/10加筆)
ミニアルバム「Blueprint」は9位―102位―205位で、現在の売上は7046枚です。
アルバム10位内は、実にTMの「Quit30」以来4年ぶりとなります。
ただシングルの方が圧倒的に成績が良いです。
これは「仮面ライダー」のタイアップ効果の強さを示しています。
現在公表されている小室さんの唯一の仕事であるラストアイドルのプロデュース企画につき、「ラストアイドル」では2/25に3戦目が放送され、小室さんはつんく♂さんに敗れて2勝1敗となりました。
この時は小室さんがスタジオでメンバーと話すシーンが放送されました。
収録は2/6「うたコン」の生放送よりは後でしょうから、現時点で最新の小室映像ということになります。
しかし今まだスタジオで何かやることってあるんでしょうか。
いや、むしろあるならばうれしいんですけどね。
2/20、小室さんがtwitterのアカウントを消去しました。
小室さんは2010年の音楽活動再開以後、自らの声を発信する場、またはファンの声を聴く場として、twitterを継続的に活用し続けてきました。
その閉鎖は引退の意思を感じさせるものとして、ファンの間に少なからぬショックを与えたようです。
コメントなどは何も出ていませんが、なおネガティブな状態が続いているものと思います。
木根さんは舞台「新☆雪のプリンセス」に出演しました。
公演初日の2/21、出演者たちが記者会見を行ないましたが、この時木根さんには記者から、twitterの件も含めて小室さんについて質問がありました。
木根さんはこれに対して、以下のように答えたようです。
そうですね。(コメント)できない点もあるんです。そっとしてあげてください。今はゆっくりとその先のことを考えているんです。
今ある仕事をしてる。テレビで見た(会見)通りに受け取って、しっかり見守ってあげてください。
余計なことはいわず、小室さんを追い詰めないようにマスコミにお願いした感じです。
またこのコメントを見るに、木根さんは今はコメントできないことを含む今後のことを、小室さんと話をしているようにも見えます。
TMについて、方針のようなものは立てられたのでしょうか。
木根さんは先月末のTREE of TIMEの会報でも、小室さんにはゆっくり休んでほしいという趣旨のコメントをしたそうです。
木根さんは、3/1~11に東京築地本願寺で上演される舞台「こと~築地寿司物語~」続編の主題歌・挿入歌を担当し、3/5にはゲスト出演もするそうです。
木根さんは「築地寿司物語」の前作でも主題歌・挿入歌を担当したそうですが、私全然覚えていないので、多分当時情報を見逃していたんでしょうね。
木根さんはさらに3/17に上野御徒町のフォーク居酒屋「旅のつづき…」で、堀江淳さんとのジョイントライブ「Folk Songの夕べ」を開催します。
4/8には福岡県の飯塚市オートレース場で「遠賀川フェス飯塚」に出演します。
ウツは2/28にアルバム「mile stone」が発売になりました。
これに合わせて「Get Wild Pandemic」のMVが公開されています。
またBlu-ray「Phoenix Tour 2017 ξIdiosξ」は、一般発売日が4/18に決まりました。
以上、近況でした。
さて、今回からいよいよ2年ぶりに、通常記事の更新を始めます。
あらかじめ言っておきますが、これまででも最悪の内容です。
しかも小室さん関係の記事です。
実はこの記事、1月には用意していたんですが、ちょうど小室さんの報道がかぶってしまい、公開を見送っていたものです。
不倫やら音楽活動の不振やら、不思議なほど先日の報道・会見とかぶる内容でしたし、興味本位で見に来られてネット記事のネタに使われるのもイヤでした。
ただオリンピックを挟んで報道もひと段落し、小室さんの件は世間ではほぼ取り上げられなくなりました。
今後見に来るのは、だいたい小室さんの音楽に興味がある方々と思います。
そこでそろそろ、通常記事のアップを始めることにしました。
現役ファンの中には、今こんなの出すなと思う方は必ずいるでしょう。
心情的に今思い出すのはつらいというお気持ちはよく分かります。
私も書いていて楽しくはありませんでした。
ただ小室さんが引退した今だからこそ、かつての歴史をちゃんと残しておきたいとも思います。
これまでTMが何をしてきたのか確認しようと思う方が現れた時、現状では2002~08年の活動が一番調べづらくなっているので、この頃何があったのかはちゃんと整理しておくべきではないかとも思うのです。
もちろん今回の内容はアレですが、あくまでも21世紀のTMの歴史を書くための序章としてご理解ください。
私も小室さんを落としたくて書いているわけではありません。
ただ事実は事実として、隠さないで書くべきだと思います。
音楽に限らずいろんな分野のファンサイトに、しばしば信用がおけないことがあるのは、誇るべきところをことさらに強調する一方で、隠したいところを語らないことがあるというのもあります。
そういうところに気づいてしまうと、「ここに書いてあること信じて大丈夫かな?」と、私などは思ってしまいます。
ファンサイトはアーティストを顕彰して広めるべき場だというご意見もあるかもしれません。
ただ私は別にファンサイトのつもりでやっているつもりはなく、それよりは過去のTM NETWORKの歴史をまとめたいという意識でやっています。
ですので、私は歴史としての精度を上げたいので、今回は最悪の過去があったから、最悪の過去を書きます。
内容的には、熱心なファンの方には読むに堪えないかもしれませんので、そのような方はここで引き返していただいた方が良いかもしれません。
半年くらいすれば、まあまあ楽しかった20周年の頃にたどり着くはずなので、その頃にまたお越しいただければと思います。
以上、予告でした。
では最悪記事の本題に入ります。
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小室哲哉の人生の転換点は何度かあったが、特に大きな転機は、1983年、1992年、2001年、2008年だったと思う。
1983年はTM NETWORK結成、1992年はTMNから離れた活動の開始で、小室のプロデューサー人生の始まりとなる年だった。
2008年は言うまでもなく、小室哲哉の逮捕である。
2001年は以上と比べると地味ではあるが、やはり間違いなく転機となる年だった。
その一つとして、この頃にアメリカ永住権を放棄したことがある。
小室は永住権の保持のため、長期的な日本滞在を行なうことができず、これが1999~2000年のTMの活動の障害にもなっていた。
だが2001年からは日本を拠点を戻すようになる。
1998~2000年の小室は所得税や住民税をアメリカに収めていたが、これ以後は日本に納税するようになった。
そしてもう一つは、小室が事実上この年に、音楽プロデューサーとしての生命を終えたことである。
それはすでに失速していたTKブームの最終的な終焉も意味した。
もちろん以後も小室はプロデューサーを名乗り続ける。
しかしその仕事の多くは、Gaballやglobeなど自身が属するユニットの仕事だった。
活動を休止していたTM NETWORKやKiss Destinationもその点では同様である。
プロデュースを行なったものとして、小林幸恵、R9、Female Non Fictionなどの事例もあるが、いずれもシングルのリリースのみであり、セールスは振るわなかった上、長続きもしなかった。
「ASAYAN」企画絡みの小林以外は、楽曲的にもGaballやglobeの延長に過ぎなかった上、世間的にもほとんど認知されなかった。
avexや吉本の企画版の制作にたずさわった例もあるが、これはすでに小室主導の企画とは言い難い。
ROJAM関係では、2000年に引き続き2001年にも中国人歌手のオーディションとプロデュースを行なう計画だったが、結局立ち消えになり、実現しなかった。
2001年のKENや2004年の葉明子など、台湾・香港人の単発プロデュースは依然としてあったが、あまり目立つものではない。
ただその中でも2002年香港映画「恋愛中的宝貝」や、2004年日中国交正常化30周年記念ドラマ「世紀末的晩鐘」の音楽監督などの仕事は、ROJAMの活動がようやく実を結んだものといえるかもしれない。
数少ない小室主導企画と思われるものに、TRFとBALANCeのメンバーで結成されたzentoがあり、クラブ向けプロモーション版シングルとして「zento ep.1」が制作されている。
だがさしたる反響もなかったようで、単独商品化には至らなかった。
(一部楽曲が2002年「Song+Nation」に収録)
BALANCeは自然消滅し、TRFもしばらく活動を休止する。
以上のように小室の新たなプロデュースワークは、いずれも短期的なものとなった。
もちろん以前から続いていたものもある。
安室奈美恵と鈴木あみの2人であり、2000年の小室は事実上この2人の存在によって、プロデューサーとしての実質を保っていた。
しかし両者も2001年には、ついに小室から離脱する。
安室は2001年年始の「Rendez-vous in Space」での厚遇を見ても分かるように、小室が期待するところは依然として大きかった。
2001年に計画されていたアジアツアー(TM等も参加することになっていた)でも、安室を前面に出すことが強調されていた。
しかし2000年の安室は「Never End」が64万枚というスマッシュヒットを出したにも関わらず、本作を収めた2000/12/20リリースのアルバム「break the rule」は33.5万枚のセールスに留まった。
前作「Genius 2000」が80.3万枚だから、1年で半減してしまったことになる。
チャートでも1996年の「Sweet 19 Blues」以来の安室の指定席だった1位を取ることができず、TKの神通力が尽きたことを感じさせた。
安室はもともと小室によってデビューしたものではなく、一定の成果を上げていたところに小室が絡んだという経緯もある。
事務所側では落ち目の小室から離れることも選択肢に入っていただろう。
おそらくその様子見として2001/8/8には、デンマークのJeanett Debbのカバー曲「Say the Word」をシングルでリリースしている。
本作には小室も、小室の知人として安室を共同プロデュースしてきたDallas Austinも関わっていない。
本作は実質的に最後のTKプロデュースシングル「Please Smile Again」(21.7万枚)を下回る18.4万枚の成績だったが、それにも関わらず小室のプロデュースはその後も復活しなかった。
2001/12/27には安室&Verbal名義で小室作曲の「lovin' it」がリリースされたが、これはavex traxの企画盤としての位置づけである。
本作以後2017年のラストアルバム「Finally」の「How do you feel now?」まで、小室から安室への楽曲提供は長く途絶えることになった。
2002/2/14には元D-LOOPの葉山拓亮が作曲、安室自身が作詞を手掛けた「I Will」がリリースされている
その後の安室はベストアルバムをリリースしながら、新ユニットSuite Chicでの活動も行なうなど、新たな活動を模索する。
その結果安室は2004年頃から人気を回復させ、以後2018年の引退まで、旧TKファミリー唯一の“現役”歌手として、邦楽界のトップアーティストとしての地位を保持し続けた。
そうした中で2009年にリリースしたアルバムのタイトル「PAST < FUTURE」は、脱小室の成功を高らかに誇ったものとも言えよう。
安室は活動の中心も、テレビからライブに移す。
たとえば上記アルバムを引っさげた2010年の「PAST < FUTURE tour」では、1年で全国80カ所を回っている。
この頃にはライブでも小室の曲はまったく歌われなくなっていた。
なお安室の事務所ライジングプロダクションは、2001年に入り東京国税局から脱税の疑いが指摘された。
社長の平哲夫は8月に辞任(10月逮捕)、2002年には懲役2年4ヶ月の実刑判決を受けている。
これを受けてライジングプロダクションは、9月に社名をフリーゲートプロモーションと改めた。
(現在はライジングプロダクションに戻っている)
平は安室のデビュー以来バックにいた人物であり、その逮捕は安室の小室プロデュース離脱にも影響しているのかもしれない。
一方の鈴木あみの事務所も、ライジングプロダクションと同様の状況にあった。
あみははじめ山田衛志(永司)のエージーコミニュケーション所属だった。
1999年にはその系列会社に事務所を移すものの、実質的には依然として山田の影響下にあった。
山田は1999年から脱税疑惑で東京国税局から査察を受けており、2000年3月に告発され、7月に逮捕された。
2001年4月には、執行猶予付きではあるが有罪判決を受けている。
小室の凋落と並行して関係者が相次いで脱税で逮捕されるのは、何か関連があるのだろうか。
エ―ジーコミュニケーションは他にも、Marc Panther、dos(asami含む)、tohkoなど、小室関連ミュージシャンの多くを抱えていた。
1998年から小室がセールスを激減させたことは、エ―ジーコミュニケーションの資金繰りにも影響を与えていたのだろう。
鈴木あみは1998年7月から2000年4月までの1年10か月で、11枚のシングルと3枚のアルバムをリリースしており、TKプロデュース群の中でも特にハイペースだった。
だがその後は2000年9月のシングル「Reality」以外にリリースがない。
これは山田の逮捕が影響していたのかもしれない。
これ以前から鈴木あみと事務所の間では、待遇をめぐって問題が起こっていたらしい。
2000年10月にはあみの親が翌年3月以後の専属契約更新拒否を通告し、12月には東京地裁に事務所を提訴した。
(あみは未成年だったため、両親が提訴)
さらに2001年6月には、SONYをも提訴している。
あみは2000年のクリスマス頃にアルバムを出す計画があったが、この一連の騒動でそれも立ち消えになる。
両親によれば、あみへの報酬支払いが不当に低かったらしい。
裁判ではほぼあみ側の主張が認められたものの、あみと新たに契約する事務所はなく、芸能界で「干される」こととなったことは周知の事実である。
小室が吉本に移籍した後、あみを吉本が受け入れる話もあり、その場合は小室のプロデュースが続くはずだったのだろうが、これも実現しなかった。
結局あみは2005年にavexと契約して芸能界に復帰する。
こうしてプロデューサーとしての小室の活動は、実質的に2000年を以て終わりを告げた。
小室の音楽歴を大まかに分類すれば、80年代がTM NETOWORKの時代、90年代がプロデューサーの時代、00年代がTMを含む自己ユニットの時代と言える。
鈴木あみの退場は、小室の進退に大きな問題を引き起こしたらしい。
小室は2000年に拠点をSONYからROJAMに移し、TM NETWORKとKiss Destinationは、SONY傘下のTRUE Kiss DiSCからここに移籍させた。
ただしROJAM立ち上げ後も、小室はSONYと絶縁したわけではなく、依然として専属契約を続けていた。
ROJAMはネット通販でCDを販売したが、これはSONYとの協議の上で認められたものであった。
(店舗販売の禁止もSONYとの協議の結論)
小室がSONYとただちに手を切ることができなかったのは、おそらく前払いで受け取っていたプロデュース契約料があったためだろう。
これは後述する通り、2001年初めの時点で18億円が未消化(前払い分の成果を出していない)の状態だった。
TMとKiss Destinationの移籍後も、小室は鈴木あみのみはTRUE KiSS DiSCに在籍させた。
小室は前払いで受け取った印税分の成果を出す必要があり、そのため旧TRUE KISS DiSC所属ミュージシャンの中で、もっとも多くのセールスが期待できるあみを残したのだろう。
ところがそのあみが、芸能界から離れざるをえなくなった。
ここに小室はSONYから前払いされた18億円分のセールスを出す見込みを失った。
すでに落ち目だった小室が、18億を稼ぐ歌手を新たにプロデュースする見込みがあると考える者は、多くなかっただろう。
ここにSONYは2001年1月、小室哲哉に専属契約の解約を通告し、18億円の返却を要求してきた。
この直前の2000年12月には、TM時代以来小室をバックアップしてきた丸山茂雄が、SONYの音楽部門であるSONY Music Entertainmentの代表取締役社長を退いているが、この新体制下のSONYで、小室の切り捨てが決められたのだろう。
小室は2000年のROJAMによるIT事業参入でかなりの資産を消費していた。
すでにSONYからの前借金もつぎ込んでいたようで、18億円の返却要求はかなり過重なものだったと考えられる。
同年に吉本に移籍した5月頃、小室の預金は1億円余りしかなかったという報道がある。
その真偽のほどはともかくとして、少なくとも18億円を一括返却するほどの資産は残っていなかったと見られる。
小室は2000年12月にavexから、10億円のプロデュース契約料を前払いで受け取っている。
SONYの契約解除を見越して、18億円返済の原資に充てようとしたものか。
これを受けて小室は「Tour Major Turn-Round」を終えた1月、globe「outernet」のレコーディングに入る。
本作は3/28にリリースされた。
2001年以後の小室はglobeを活動の核とするようになるが、これはプロデュース契約料の前借も一つの理由だろう。
そうした中でTMの活動が見られなくなったことを考えれば、SONYをめぐるいざこざは、めぐりめぐってTMにも影響していたともいえる。
なおavexの前払い分10億円は、2004年末までの4年間で3億1000万円しか消化されず、小室はavexからその履行を厳しく要求されている。
この結末を見る限り、SONYが逸早く18億円を取り返したのは、経営者の立場としては正解だったことになる。
「outernet」リリース1ヶ月の2001/4/25には、Kiss Destination「AMARETTO」がリリースされた。
TMツアー終了後、小室は2枚のアルバム制作を立て続けに行なったのである。
本作はROJAMではなく、ポニーキャニオンからのリリースとなった。
「AMARETTO」のリリースをめぐっては様々な動きがあった。
アルバムのプロモーションも兼ねてだろうが、リリース日の4/25にKiss Destination相方のasami(吉田麻美)の妊娠と、小室との結婚を発表したのである。
2人は1998年から付き合ってきたから、実に3年越しのゴールだった。
「AMARETTO」リリースに先立つ4/20には、もう一つの重大な出来事があった。
小室哲哉の吉本興業とのマネージメント契約である。
5/1には小室が麻美との婚姻届けを区役所に提出した上で、新宿のルミネtheよしもとで吉本興業入りの記者会見を行なっている。
この移籍は、もちろん1月のSONYとの専属契約解除を受けてのものである。
実際に小室と吉本の交渉は、1月頃から始まっていたと言う。
おそらくこれと絡むものだろうが、小室は4月頃から、バラエティ番組に続けて出演している。
4/08「笑う犬の冒険」、4/15「堂本兄弟」、4/24「さんまのまんま」などである。
それにしても「なぜ吉本!?」と、多くの者は思っただろう。
私も大阪で笑顔の小室の横に「みんなヨシモトへおいでヨ」と書いてあるなんばグランド花月の巨大な看板を見た時は、「ここまで迷走するとは…」と眩暈がしたものである。
(なおこの写真、今では逆に手に入らなくなっているので、お持ちの方がいらっしゃったら、コピーしていただけると幸いです)
ただこの時はむしろ吉本側が、小室周辺にきな臭い人物が多いことを危惧していたとも言う。
ROJAMのIT事業参入から1年を経たこの頃、カタギとは言いがたい吉本からすらこのように思われるほど、この頃の小室にはうさんくさい人脈が形成されていたらしい。
5/31には、吉本がレコード会社R&C JAPANを設立した。
吉本は小室移籍を契機に、音楽事業にも本格的に手を伸ばすようになったのである。
小室の新ユニットGaballの作品は、ここからリリースされた。
同じ5/31には、ROJAMが香港のベンチャー市場GEMに上場し、1株1香港ドルで9000万株の株式を発行した。
1香港ドルは当時約15円だから、このまま売れれば日本円で13.5億円を調達できるはずだった。
だがその株価は、上場から半月で半額に下がるほどの急落を見せた。
年末には上場時の1/10の0.1香港ドル、翌年7月26日には0.075香港ドルとなっている。
小室が経営から撤退する2004年には0.09香港ドルまで持ち直しているが、最後まで大きな改善はなかったと見られる。
ROJAMは上場以前に10億餘の株式を発行していたが、その42.36%(約4.68億株)は小室が持っていた。
(なお以前は当時の報道に基づき小室の株式保有率を43.36%としていたが、ROJAMの資料により42.36%と修正した)
当時の週刊誌はROJAM株の暴落により、小室が74.5億円の含み資産を5.4億円まで減らしたと報じている。
よく言われるROJAMによる小室の70億円の損失とは、この試算に基づくものだろう。
この話は拡大解釈されて語られることが多いので、一応ここで確認しておきたい。
なお試みに上記の情報から、2001年5月と2002年7月の小室保有株式の資産価値を概算すれば、以下のようになる。
2001/5:
4.68億株×1HKドル×15.244(5/31換金レート)≒71.3億円
2002/7:
4.68億株×0.075HKドル×15.228(7/26換金レート)≒5.3億円
ただしばしば小室がROJAMで借金を負ったとされるのは、多少留保が必要である。
たしかに小室は株価暴落によって資産を大幅に減らしたが、株式による資産がゼロに近づくことはあっても、マイナスにはならないはずである。
また、実は上場前のROJAMの株は2000年7月頃まで、1株0.1香港ドルで取引されていた。
8月以後は1株0.8香港ドルに引き上げられたが、これは相当強気な設定である。
ならばROJAMの株価が上場後に0.1香港ドルまで下落したのは、暴落というよりは、上場時に実情と乖離した評価額で株価が設定されたため、市場の原理に従って適正価格に押し戻されたというべきだろう。
小室を含むROJAMの経営陣の判断が甘かったというべきである。
そして小室の持ち株は大部分が初期に取得したもので、1株平均で0.112香港ドルを出資していた。
となると小室の持ち株の価値は、もともと8億円程度(4.68億株×0.112香港ドル)に過ぎなかったと考えられる。
またこの株式取得にあたって現金の形で出資した額がどの程度だったのかもよく分からない(8億円と等価とは限らない)。
いずれにしろ、70億円の出資額が一瞬で溶けたという理解は修正が必要である。
ROJAMが1株1香港ドルで上場したことで、たしかに小室の持ち株は70億円以上の価値を持ったかもしれないが、それはもとより一時的なものであったと見るべきである。
ただ小室の場合、ROJAMへの投資も含めて、現金資産を各方面で消費してしまったため、SONYの18億円返済の要求に対応できなくなったのが問題だった。
小室の借金は直接にはこの返済のために生じたもので、2009年の公判で借金の経緯としてROJAMの件が言及されなかったのもそのためである。
しかしこの18億円の件は、5月末の上場と関係しているのかもしれない。
2009年の公判によれば、SONYへの返却期限は5月頃だったというので、タイミングとしては関係がありそうにも見える。
経営者が数億単位で自社株の売却を行なうのは立場上困難だが、ROJAMは上場時に8億もしくは10億の資金調達を目指すとされており、これを小室の返済につなげる何らかのからくりが想定されていたのかもしれない。
もちろんその皮算用は、まったく絵に描いた餅となった。
なお一部サイトで小室が上場後も増資を繰り返していてたという推測がされているが、これは小室が上場以前からすでに4.68億株を保有していたことを見落としたことによる誤解である。
実際には2002年にも小室の保有株式数は変わっていない。
2004年の取締役辞任まで現金化もほとんど行なわず(1割ほどは譲渡したらしいが)、4億株以上を保有し続けたと見られる。
さて、小室はROJAM上場の失敗により、SONYへの返済金18億円を別途確保する必要に迫られた。
avexからの前借金10億円はあったが、その他に8億円を用意する必要があった。
返済期限は5月だったが、SONYに待ってもらったものだろうか。
この返済は、別のところから借金をすることで果たされた。
8月に自らの著作権を担保にして、富士銀行から10億円の融資を受けたのである。
ここに小室はSONYに対して負債はなくなったが、代わってavexと富士銀行への借金を各10億円、計20億円負うことになり、その返済は後々まで小室を苦しめた。
小室の不幸の種はまだ蒔かれ続ける。
2001年5月に麻美と結婚した小室だったが、それから一年もしない2002年3月に離婚したのである。
2001/9/22麻美との間に娘が生まれたが、小室はこの頃からKEIKOとも関係を持つようになり、それが麻美に知られたことで離婚となった。
その際に小室は、莫大な慰謝料と娘の養育費の支払いに同意した。
(前年の結婚以後の資産増加はなく、財産分与は問題にならなかったか)
2009年の公判によると、小室は慰謝料3億7000万円を3回に分割して支払い、加えて娘が成人する2021年まで、月200万円から390万円の養育費も支払うことになっていた。
さらに報道によれば、2004年の小室は、麻美のマンション家賃として月150万円も支払っていた(どんなマンションだったのだろうか)。
養育費+家賃で月400万円という情報もあるので、月200万~390万円という情報に見える390万円とは、家賃を含む支払い総額を言っているのかもしれない。
仮に養育費を19年半の支払いとして、毎月390万円の支払いとすると総額は9億1260万円となり、これに慰謝料3億7000万円が加わる。
離婚後の報道で総額10億円以上と試算されたのは、麻美は否定していたが、実際には妥当なところと見られる。
すでに小室の財政が火の車となっていたにもかかわらず、巨額の慰謝料・養育費・家賃の支払いが発生したことは、ボディブローのように小室を苦しめただろう。
さらに2001年「Rendez-vous in Space」開催に当たり小室が自腹で3億円を支出するなど、この頃からは数億円規模の不可解な金銭の流れが続出する。
毎年数億円の印税を得ていた小室だったが、それにもかかわらずこうした悪条件の中で、借金は増大していった。
大規模出費の例としては、2001年の早稲田大学の小室哲哉記念ホール建設がある。
これは早稲田大学創立百周年に因んだものである。
9/18にはオープニングセレモニーとして、小室のピアノコンサートが行なわれている。
(キーボード久保こーじとギター松尾和博も参加)
その寄付金は数億円規模で、一説には10億円ともいう。
これによって早稲田中退の身だった小室は、卒業生として「校友」の称を名乗ることが認められた。
ただこのホールの建設は4月にはかなり進んでいたようで、かなり早い段階で動いていた話だろう。
よって2000年以後の動向として見るべきではないかもしれないが、他に機会もないので、ここで触れておくことにする。
なお小室は2001/4/14の早稲田大学創立百周年式典に出席した時、記念歌として小室作曲の「ワセダ輝く」を披露している。
一般流通には乗らなかったが、当時このCDは早稲田大学で売られたらしい。
さて、このような中で小室が心酔した人物がいた。
自称霊能力者の細木数子である。
小室は日本にいる時に頻繁に細木に会いに行き、アドバイスを受けていた。
小室は細木を「数ちゃん」と呼んでいたと言う。
その依存度を高めたのは2000年頃らしく、2000年12月から2001年1月の「Tour Major Turn-Round」の頃には、小室の左手首にTKの入れ墨とともに六芒星の入れ墨が入っている(現在も入っている)。
これは細木の六星占術に基づくものである。
この入れ墨は2000年7月末の「Log-on to 21st Century」のパンフレットの写真では入っていないので、2000年後半に入れたものと考えられる。
10月には小室がBBSで六芒星を話題にしており、この頃に入れ墨を入れるまでに至ったものか。
この頃はネット通販の件でファンから批判されたことや、軌道に乗らないROJAMの経営の件などで、小室も精神的に摩耗していたのかもしれない。
小室はそこに付け込まれてしまったのだろう。
2000年代に見られる不可解な判断の一部には、細木にそそのかされて下されたものもあるに違いない。
この頃の小室にとっての細木の存在の大きさを示すのは、結婚に関するアドバイスだろう。
小室は2002年、KEIKOを連れて細木に結婚の相談に行き、細木の後押しを受けて結婚を決意したというのである。
麻美との離婚発表日やKEIKOとの結婚式の日取りも、細木のアドバイスで決めたと言う。
実は小室はこれ以前、麻美との結婚の決断に当たっても、細木から言われていた婚期が一つの判断材料になっていた。
結局この結婚は1年もせずに破綻するが、それにもかかわらず小室は細木を疑うことがなかった。
むしろ結婚相手の相談を細木にしていなかったことが問題だったと考え、KEIKOを連れて行くようになった。
個人的にぞっとしたのは、木根の「新・電気じかけの予言者たち」に見える以下のエピソードである。
2002年初め、globe「Lights2」レコーディングのためにフランスに渡っていた時のこととして、以下のように書かれている。
そこでKEIKOとMARCは不思議な体験をしたそうだ。小室が“気”で鉛筆やコップを動かすのを見たと言う(残念ながら、僕には、いまだに見せてくれないが。)
「風邪ひいちゃって、喉の調子が最悪で、声が出なかった日があったけど、TKが喉に手を当ててくれたら、歌えるようになったんですよ。本当に」
KEIKOによると、小室の気は、物を動かすだけではないらしい。
「僕は、その手のものをあまり信じないけど、見ちゃったから…」
MARCもレコーディング中に目撃している。
小室いわく、「調子のいい日でも1日1回くらいだけどね。できるんだよ」とのことだ。
こうした小室の霊能力パフォーマンスは、細木の影響と考えられる。
当時のglobeのメンバーやスタッフの間では、小室の茶番に乗って盛り上げないといけない空気が形成されていたのだろう。
KEIKO・Marcが音楽面で小室に意見できる位置になかった以上、小室を盛り上げることだけが彼らのできることだったともいえる。
(一方で独自の信仰を持つ木根のいるTMではそれができなかったのだろう)
また仮にKEIKO・Marcが本心からこれを信じていたのだとしても、それはそれで気持ち悪いことこの上ない。
当時小室は、globeは風水が良いなどと発言しており、細木への傾倒は音楽活動の内容にも影響していたように見える。
すでにROJAMの事業は暗礁に乗り上げていたし、妻の麻美とは別居して離婚協議を進めていた頃でもあった。
小室は公私ともに精神的に追い詰められていた可能性がある。
細木との関係はたまたま表に出ているものだが、おそらく他にも同様のうさんくさい関係は、この頃たくさん形成されていたに違いない。
そして精神的に弱っていた小室は、細木の如き輩に操られて判断を狂わせ続けたものと思われる。
こうして見ると2001年前後は、プロデュース歌手の消滅、麻美との結婚と離婚、SONYへの18億円返却、avexからの10億円前払い、ROJAMの上場、富士銀行からの10億円融資、細木数子への傾倒など、後の小室没落の種が一挙に揃った時期でもあったことが分かる。
この点でも2001年は一つの転機だったと言える。
そうした中で霊能力話にも対応し続けたKEIKOは、小室にとって心を許せる存在でもあったのだろう。
KEIKOも小室と一緒に細木の下に通うようになった。
そして2002/10/6、小室とKEIKOは結婚を発表する。
3/15の離婚発表以来、半年余のことだった。
法的には問題ないとしても、世間的にはあまり評判のよくない話題だった。
しかし小室はだからこそ、KEIKOにみじめな思いをさせないように、麻美以上の晴れやかな場を与えたかったのだろう。
小室は細木の決めた11/22「いい夫婦の日」に婚姻届を提出し、靖国神社で結婚式を行なった上で、新高輪プリンスホテルで結婚披露宴を行なった。
この披露宴はTBSの特番で、「超豪華! 世紀の結婚披露宴」と題して生中継された。
招待客は800人程度で、森喜朗元首相や音楽関係者の他、旧TKファミリーや(義理参加と思われる)吉本芸人も多く参加した。
異彩を放っていたのは内田裕也ファミリーだが、これは言うまでもなくTMデビュー前の小室の縁である
受け付けは、友人代表としてウツと木根が行なった。
余興としては、YOSHIKIの「seize the light」ピアノ演奏や、南こうせつ&木根尚登の「妹」弾き語りが行なわれ、最後には小室&KEIKOによる「Departures」が披露された。
この時の挙式費用は、5億円とも言われている。
実際には放映権料の収入やご祝儀で多少は取り返しているのだろうが、それでもすでに火の車だった小室の財政にさらなる圧迫となったことは想像にかたくない。
そしてこれが、小室のイベントがマスコミで「豪華」と呼ばれる最後となる。
なお小室の納税額より見るに(2002年2.4億円)、この頃の小室の年収は5億円ほどと見られ、一度の結婚式で年収すべてをつぎ込んだことになる。
納税後の手取り収入は2~3億円だったはずで、さらに慰謝料・養育費の支払いと銀行への返済もあったのだから、この年は数億円規模の赤字計上だったと見込まれる。
以上、小室哲哉周辺の動向を見てきた次回はこの時期の小室の音楽活動を簡単に追って行こう。
正直、多くの人には(自分も)ほとんど興味がないと思うので、一回で終わらせたいと思う。
(2018/3/4執筆、2021/12/10加筆)
この記事へのコメント
息の長いバンドやミュージシャンの活動を追う中で良くない過去を持つアーティストは沢山いますが、だからといって包み隠さずキチンと公式の情報として事実としての過去も語り継いでいかなければそのアーティストの本当の魅力を堪能することはできないと思います(稀に本当に記事に出来ないヤバい過去を持つ方もおりますが…^_^;)。
TMの公式情報は綺麗事な表現で現実をオブラートに包んでしまう事が多いので、今回の記事のようにナイフのような鋭い現実をファンに知ってもらった上で、それでもTMを(そして小室さんを)好きでいられるかを見極めなくていかなくてはならないのかなと考えてしまいます。
そしてそれでもやっぱり好きなんだよな~と認識した時に改めて残された楽曲を聴いていけばまた今までとは違った魅力を感じ取ることができるかもしれませんので、小室さん引退を引きずっている方も惑星さんが身を削って書き上げた渾身のブログ記事を目を背けずに読んで頂きたいなーと思っております。
これからの記事も辛酸を舐めるようなキツい内容が多いとは思いますが次回の更新楽しみにしていまーす。しっかり覚悟を持ってちゃんと読んでいきますよー(^-^)/。
最近またTMを聴く様になって知りたいと思っても、情報集めが下手で今一つ解らずにいたので、こちらの通史、大変ありがたく読ませていただいてます。
最近本家wikiがあまりに盛り上がっているので、出されている出典元の雑誌等を運よく借りる機会が出来ましたが…まず何周もしないと頭に入らない!そもそも発表された時期がシングルが出されてからそんなに経ってないのにそこまで喋って良いの?!そもそもそれって少なくとも5年程経ってから「もう時効だし、お互い笑い話に出来るだろ」という感じでトークショーで行う類の話題でしょ…先生、何であの時、作品発表から数ヶ月も経ってないのにそこまで話せるのですか…としばらく記事の内容が頭に入れることが出来ないほどに気が遠くなりました。これか、これが俗に言う「脳が溶ける」と言う奴なのか!ともうあそこまであっけらかんと裏事情を話す姿勢には1周回って天晴れでした。
ただ、見方を変えれば先生曰く「一般に寄り添いたい」という思想が他の方より人1倍強いから、「その気持ちに正直でありたいから出し惜しみはしたくない、どう思うかは貴方の自由」と言う青い惑星様がいつか例えていた「ふてぶてしさ」が良い意味で作用したから、今尚語られるべき人物になれたのかと思うと未だに心中複雑です。
失礼いたしました。
個人的に「DECADE RUN」以降、逮捕されるまで小室氏に興味が殆ど無くなっていた時期ですし、21世紀初頭のネット黎明期の出来事は、逆にネットでのアーカイブが少ないので、こうしてまとめて頂いている貴ブログに本当に感謝です。
当時リアルタイムで見ていて「安室がとうとうTKプロデュースではなくなった」や、まさに「なぜ吉本!?」と思ったりしていましたが、やはりこうした裏事情があったんですね。芸能人の定番末路である「宗教やスピリチュアルにハマる」と言う道まで辿っていたのは知りませんでした。六芒星の入れ墨って………。人間って真に困窮すると本当にそう言った物に救いを求めてしまうものなんですね…。
その後の「SPEEDWAY」の歌詞から見受けられた限界状態、逮捕されて憑き物が取れたように穏やかな表情に戻った小室氏を見たのももう約10年前と思うと早いですね。この10年間も決して楽では無かったわけですけど…。
SONYからの前払いで受け取っていたプロデュース印税の未消化分が18億円だったというのは驚きました。しかも未消化分ということは、より大きい金額を受け取っていたということだと思います。
全盛期の小室さんの年収でも20数億円だったと記憶しています。前払い印税を受け取った時期にもよると思いますが、鈴木あみやTKD、TMで全盛期(96年頃)のような売上枚数を今後も維持できると見込んだSONYもかなり甘かったのではないかと思います。
もちろんROJAMに使い込んでしまった小室さんに責任はありますが・・・・・。
avexも2000年末の時点で10億円を渡しているのもglobeが99年頃までの売上まではいかないまでも、それなりの売上枚数が出せると見込んだものなのでしょう。
CDバブルの崩壊と相まって、当時の売上枚数の下降は凄まじいものがありましたね。
とても熱いコメント、どうもありがとうございました。
正直、第七部は書く方も読む方も苦行かと…
それは誰得なのかという問題もありますが(笑)
ただこちらの意図をとてもよく踏まえていただけたのは嬉しいです。
あまり早い更新はできないと思いますが、
一定の頻度での更新は心がけるつもりです。
終わったら、祝杯上げて下さい!
>やまびこさん
小室さんのお金の問題は、いろんなところで判明する情報から再構築しているのですが、
おそらく他にも表面には出ていないまずい話もいっぱいあると思います。
基本的な構図としては、だまされやすい人がだまされてしまったということでしょうね。
アメリカ移住、アメリカへの憧れがまずあるだろうというご指摘、
小室さんの場合は間違いなくあると思います。
考えてみれば節税という目的は当人が明言したものではないので、
あくまでも可能性の一つとしておくべきですね。
ここは余計な部分は削除しておきます。どうもありがとうございました。
>Cさん
この時期の情報はよく分からないと思います。
当時追っていたファンの多くも、あまり分かっていないのではないでしょうか。
TMの活動が断片的なこともあって、流れがさっぱり分からないのですよね。
主要なできごとはwikipediaで追えると思いますが、
TMをとりまく動向は今後まとめていこうと思います。
ごゆっくりお付き合いください。
本家wikiて、分家とかおまけとかがあるんですか?
この頃の小室さんに軽率な発言が多いのは、
ROJAM・R&C期を通じて、マネージメントの体制がほとんど機能していなかったからだろうと思います。
2010年以後は、「まだ言えない」みたいに自制すること多かったですよね。
ああいう抑えがなくなっていたのではないでしょうか。
そしてその結果は悲惨なことになったわけですが…。
>きつねさん
この時期は個人でweb上に情報を残すことが今ほど簡単ではなかったから、
発信することのハードルが高かったですよね。
まだBBSやチャットが中心だったから、情報も残りづらいし。
まもなくmixiが広まって、SNSの時代に入るわけですが…。
それにしても逮捕からもう10年というのがウソのようです。
細木といいKEIKOといい看護師といい、
小室さんて弱ると誰か頼る人を求める方なんでしょうね。
まあ誰でもそれはそうでしょうけど、
小室さんの場合頼る人を探すのが下手なのかなあと感じます。
>naoさん
SONY前払い情報は、リアルタイムではまったく知られておらず、
むしろ富士銀行の著作権を担保にした融資が先見的試みとして注目されていました。
当時はまさか小室さんがお金に困っていたなんて思いもしなかったんですよね。
小室さんが逮捕されて取り調べを受けなかったら、永久に知られない事実だったはずです。
SONYやavexの巨額な前払い金はたしかに異常で、この頃小室さんから強い働きかけがあったんだと思います。
多分取り巻きから、ROJAMにたくさん投資するほど儲けが出るから無理してでも資金をたくさん調達するようにとか言われて信じちゃったんじゃないでしょうか。
本当に厳しすぎる人生勉強だったと思います。
TMファンだったわたしは、小室プロデュース期に入ってもそこそこ聴き続けており、CDもよく買っていました。
そしてこの時期も、まだ割と聴き続けていましたが、「ブームはすぎたな」くらいで、資金難や、資金繰の失敗、金銭的苦難には、まったく気づいていませんでした。
詳しい情報を、ありがとうございました。
TM終了と同時に離れていたので、こんな事があったのかと驚きながら読ませていただきました。
学生の頃、純粋にTMサウンド、ステージ上で輝く小室さんを楽しみにコンサートに行っていた頃が懐かしい。
いろんな人生があるもんですね。
小室さんもこの頃まではバブリーな風を装っていましたよね。
2004年くらいから、海外資産の売却とかROJAM株売却とか、不穏なニュースが入ってきたと思います。
小室さんも本当は2001年の時点でもまずいとは気付いていたと思うんですけど、KEIKOさんとの手前もあって、なかなかおおっぴらに貧窮ぶりを言うこともできなかったんでしょうかね。
>きなこもちさん
80~90年代にはこんなことになるとは思っていませんでしたよね。
若い頃の貯金で好きな音楽をやりながら晩年をすごせばいいのになあと私などは思うんですが、そういうのではモチベーションが保てなかったりとかするんでしょうかね。
クリエイティブな仕事て、そういうところのバランスが難しいのかなと思います。
本記事にあります、小室氏の吉本グランド花月の看板の写真ですが、「小室哲哉 吉本」とGoogle画像検索すると出てきました。まだ写真画像をお持ちでないなら、一度検索なさってください。
その写真は教えてもらいました。
ただ当時雑誌広告とかで、もっときれいに見れないかなとは思っています。
あんなもん保存している人もほとんどいないでしょうし、私も実際にそんなに欲しいわけではないですけど、資料的に持っていた方がいいのかなあと言う程度で。
宗教学者である島田裕巳氏は、著書『「厄年」はある!』(三五館、2005年)で、42歳だった1995年に、オウム真理教に対する過去の発言を批判され、日本女子大学教授の職を辞任しました。この経験から、厄年という概念は迷信では無いと述べています。
>小室の凋落と並行して関係者が相次いで脱税で逮捕されるのは、
何か関連があるのだろうか
今日(4月28日付)の朝日新聞デジタルの記事『水害、式年遷宮、新幹線開業…国税が目をつける「特需」』
https://www.asahi.com/articles/ASP4W771XP47PTIL03P.html
に、ヒントとなりそうな記述がありました。
『20年に1度の式年遷宮でにぎわう伊勢神宮(三重県)周辺のホテルや、北陸新幹線の金沢開業で観光客を呼び込む飲食店、紀伊半島大水害の復旧工事に携わる建設業者――。国税当局はこれまでも、さまざまな「特需」を端緒に集中的な調査を実施し、申告漏れを指摘してきた。
「特需」などで売り上げが増え、利益も出ているはずなのに、税務申告が例年と変わっていなければ申告漏れの可能性がある。ある国税OBの税理士は「好況下にある業界で申告漏れがいくつか判明すると、その業種や地域を徹底的に税務調査することがある」と振り返る。』
ライジングプロダクション、エージーの2社が脱税で摘発されたのは、小室ブームなどで利益が急増したから、国税に目を付けられたのでしょう。
まあ数年越しでマークされていたのかもしれませんが。
2002~03年には、バーニングプロダクション、ジャニーズ事務所でも、税務申告漏れが相次いで摘発されました。
(烏賀陽弘道「Jポップとは何か」岩波新書、p221~222)
平氏・山田氏逮捕がバーニングやジャニーズと一連の動向だったのならば、この頃芸能事務所全般に対してチェックが強化されていたのかもしれませんね。
それなら両件は、特に小室さんとの接点を考慮する必要はないということになりそうですね。
https://www.youtube.com/watch?v=f4i37GRPz_Y
短かった結婚生活中の映像は、おそらく珍しいでしょう。
鈴木あみの裁判についてのニュース映像(2001年5月)もありました。
https://www.youtube.com/watch?v=iNbjs6e9UeI
休みが年5~6日しかないという、事務所の扱いが不満だったようですね。
どうでもよい話ばかりで、全然頭に残っていませんけど。
asamiとの新婚生活の映像は、これくらいかもしれませんね。