7-27 ポスト20周年へ

緊急事態宣言も先が見えてきた中、緊急事態とは特に関係ないですが、今回から本ブログの書式を変えることにしました。
これまで本ブログでは、文章の途中で短く改行を入れ、末尾には句点「。」をあえて入れていませんでした。
これは特にポリシーがあってのことではなかったのですが、書き始めた頃は辞典的な事項は書かずにおおまかなことだけを書く方針だったため、各記事の内容もあまり長くなく、短く区切るスタイルでもそれほど読みづらくはなかったということがあります。
(今では初期記事もどんどん加筆を入れているので、結構長くなっていますけど)


実は本ブログの当初の方針としては、細かい事実関係はファンサイトやwikipediaにお任せして、活動のおおまかな流れを追うことを主旨としていたはずでした。
具体的なデータもできるだけ入れないように書こうと思っていたのです。本当は…。


ところがブログを書き続けているうちに、だんだん細かいことも書くようになってきました。
多分2008年のリーダー逮捕あたりで、はりきって書いちゃったのが影響しているのかもしれません。
これはやべーなーと思ったのは、「EXPO」の記事を書いていたら、ブログの上限字数(当時の)を超えてしまい、アップができなくなってしまった時です。
その後は上限字数を気にしながらの執筆となりました。
(ただし去年くらいのブログの仕様変更によって上限字数は大幅に緩和されました)


そんな長文ブログに変貌したにもかかわらず改行多用・句点なしの文章が続くのは、はなはだしく読みづらいとは自覚していたのですが、途中から文体を変えるのも一貫性がないなあと感じながら現在まで来ました。
しかし私こと青い惑星の愚か者は、愚か者なりに決心しました。
TM20周年関連記事が終わったタイミングで、これからは普通の文章にします!


しばらくは試行期間ということにしますけど、不満の声がたくさん出てこない場合は、今後このままでいくつもりです。
その場合、今書いている第7部が終わったら、過去記事も順次文章を修正していこうと思います。
ご感想などありましたら、頂けると幸いです。


さて、昨今のコロナウィルス騒動の中で、メンバーの新しい活動はほとんど聞こえてきませんが、一応近況整理しておきます。
まず「Gift from Fanks」は、T盤・M盤ともに売上は1万枚程度となりました。
なおウェブラジオ「Gift from Fanks」は、当初4/24まで公開とされていましたが、5/23まで延長されました


ウツのライブblu-ray「Dragon The Carnival」は、フライングゲット日の4/20付けの音楽blu-rayデイリーチャートで2位を獲得しました。
リリース日4/21に他の作品リリースがほとんどなかったこともあったようですが(通常のスケジュールでは水曜日=4/22リリース)、ウツソロ名義の作品がチャート一桁台に出るて、すごいことです。
ウィークリーチャート(5/4付け)では6位の成績で、こちらでもベスト10入りです。
売上枚数は825枚で、TM30周年ライブのblu-rayが7000~8000枚くらい売っていたのと比べると、1/9~1/10くらいとなります。
ただウツの場合、売上の過半がチャート集計外のFC盤通販と考えられます。
実際の売上は2000枚前後になるでしょうか。


ウツと木根さんはGW明けに、ライブ中止の追加を告知しました。
ウツは5/19・20の赤坂公演と5/26・27大阪公演(延期分)です。
月末までの緊急事態宣言延長によって、開催を断念せざるを得なくなったのでしょう。
たしかに、どう考えても無理な情勢でした。
次は7/6・7に延期されたマイナビBLITZ赤坂公演ですが、これもどうなるかなあ…。


木根さんはすでに6月の4公演が中止とされていましたが、7月の7公演も中止にされました。
中止は開催2カ月前までに告知するそうなので、月明けには8月公演についても告知されるでしょう。


最後に、松浦勝人さんが5/15にavexのCEOからの退任を発表しました
会長職には留まるそうですが、avexの経営からは離れ、クリエイターとしての活動に専念するとのことです。
実際に経営面での影響力が皆無になるわけではないでしょうが、発言力は今までほどではなくなるでしょう。
仮に小室さんが音楽活動を再開する気になっても、今までほどのバックアップを得られるかは疑問です。
まあそんな捕らぬ狸の皮算用をしても意味はないんですけど、一応軽く触れておこうと思いました。


では本題に入ります。



2004/6/25の武道館公演「Double-Decade Tour Final」を以て、TM NETWORKの20周年の活動は終わった。
厳密には「Eternal Network」のインタビュー作成の仕事が残っていたが、これも7月前半には終わる。
以後3人がTMの仕事を入れた形跡はない。


このスケジュールは、遅くても2004年年始には規定路線だったと見られる。
前章で見た通り、SONYの特設サイトDOUBLE-DECADE.COMが、2月初めに立ち上げられた当初から6月末日閉鎖と予告されていたのは、20周年の活動が6月を以て終わることが決まっていたからであろう。


ファンの中には、ライブで披露されたままCD化されていなかった「Green Days」を気にする者もいただろう。
実は本作はリリースの計画もあったらしく、ウツは8月のインタビューで、「秋にはシングルとかそういう形でたぶん発売されるとは思うんだけど」と発言している。
もしもこれが実現した場合、その後にTMの活動が続いたのか、20周年最後の置き土産で終わったのかは分からないが、いずれにしろこれは実現しなかった。


8/26には「Eternal Network」特設サイトに小室のコメント動画がアップされたが、そこでは次のTMの活動はゾロ目の年(22周年=2006年)になるとの発言があった。
この背後にどの程度具体的なプランがあったかは疑わしいが、これに先立つglobeデビュー記念日の8/9には、以後1年間globe10周年の企画を行なうことが宣言されている。
ならばこれが終わる2005/8/9までTMの活動は考えがたく、その後の準備期間も考えれば、TMは早くても2006年になるということだったのだろう。
要するに2005年が終わるまで1年半、TMの活動がなさそうな空気はかなり濃厚だった。
また以下で見るように、3人は2004年前半にはTM20周年遂行と並行して、2004年後半のソロ計画を進めていた。


2004年のクリスマスには、TM3人のFC会員に3人名義のクリスマスカードが届けられた。
2003年にも20周年の活動に先立ってクリスマスカードが送られたが、2004年のそれは20周年の活動を経て感じたことを述べてファンに感謝の意を伝えたものだった。


そこでは次の活動を行なうことをにおわせながら、具体的なことは何も触れられていなかった。
文章自体は徹貫の作だろうが、中途半端な英語が随所に挟まりイラっとさせられる。
最後の文章のみを以下に引用しておこう。

DOUBLE-DECADE前は思っていました。僕たちからのプレゼントだと。しかしDOUBLE-DECADEを終えた今は思っています。FANKSからのプレゼントだったと。だからいつかきっと お返しをしなくちゃ。僕たちらしい方法で、僕たちらしい音楽にして、この気持ちを。
Surprise may come to you in the near future. Thank you.


これに先立つ12/1には、ウツ・木根が恒例の「AAA」に出演した。
木根は森口博子と一緒に出演して松田聖子「Sweet Memories」を演奏した後、ウツと一緒に「いい日旅立ち」など懐メロを数曲披露した。
TMN再始動宣言後の1998年から2003年まで、ウツ・木根は「AAA」で必ずTM楽曲を演奏していたのだが、この時からは演奏しなくなる。
それはTM20周年の活動が終わり、次のTMがいつになるのか、または次があるのかも分からなかったことも関係しているのだろう。


以下、2004年における3人のソロ活動を確認してみよう。
まずウツはすでにTM20周年が始まったばかりの2月に、秋からのソロ活動について言及しており、5月には10・11月のツアー日程も発表している。
この発表は、5~6月のTM「Double-Decade Tour」に合わせたものであった。
ソロツアーの宣伝として、より集客力のあるTMのツアーは逸することのできない機会だった。


ウツは2001年以来、常に秋に新譜をひっさげたソロツアーを開催していた。
当然その前には、新譜のレコーディングを終えている必要があるが、そのための準備は春から始めていなくては間に合わない。
そのためには、TM20周年の終点もあらかじめ定めておかなくてはならなかったと考えられる。


ウツの当初の計画では、「Double-Decade Tour」と並行してソロ活動の準備を行ない、秋のソロツアー前にシングルとアルバムを出すことになっていた。
ところがこの予定はかなり遅れ、ウツが実際に曲を集め始めたのは武道館公演後となり、レコーディングは8月末から始められた。
シングルのリリースもなかった上、アルバム「Overtone」もフルアルバムではなく、6曲入りミニアルバムになった。
ウツが先行シングルを切らずにアルバムを出したのはこの時が初めてだが、これはスケジュールの遅れが影響していたのかもしれない。


9月にはレコーディングとツアーリハーサルが重なるなど、かなり忙しい状況になっていた。
ソロツアー「Tour Overtone」では、新譜「Overtone」から「Set Me Free」「The Long Night is Over」の2曲しか演奏されず、アルバムツアーとしての体をなしていなかったが、新曲の完成がリハーサルに間に合わなかったのかもしれない。


こうして制作された「Overtone」のリリースは11/3となった。
「Tour Overtone」は10/2から始まったが、11/6・7のZepp Tokyo追加公演2本を除き、アルバムリリース前に開催されるという変則的なスケジュールである。
ライブ会場では、「Set Me Free」1曲を収めたCDを付録とするライブパンフレットが販売されたが、これは当初のシングルリリース計画と関わるものかもしれない。
なお東海ラジオでは10月からツアーに合わせて、ウツのラジオレギュラー「声ボンナイト」が始まった(2005年3月まで)。


「Overtone」では原田真二がプロデューサーとなり、楽曲提供も行った。
前作「wantok」で吉田建をプロデューサーに起用したのに続き、本作でも知名度のあるミュージシャンを起用したのである。
ウツと原田の縁は、以前述べたように、2003/12/30「ザ・ベストテン」特番で共演したことから始まった。
もっともソロのプロデュースを依頼したのはその時ではなく、アルバム制作を企画する段になって白羽の矢が立ったものらしい。


本作では原田へのプロデュースの依頼から作曲の締切まで、1か月程度しかなかったという。
これもアルバム制作の準備の遅れに起因するものだろう。
当初ウツは全曲の制作を原田に依頼することも考えていたものの、結局3曲に留まったというが、時間が足りなかったためだろうか。


「Tour Overtone」のサポートとしては、ドラムに阿部薫が入った。
またベースの平野建多やコーラスの日永沙絵子は、1996年の「Tour Easy Attraction」や1997年「E.A. Grandstand」にも参加したことがある。
ウツによれば、歌に集中するライブにするために、気心の知れた顔ぶれを中心にしたのだという。


このツアーではTMの「アクシデント」が演奏された。
ただしDVD「Tour Overtone」に収録された11/7最終公演のみ、これがTMの「Here, There & Everywhere」に差し替えられた。
それまでTMで「Here, There & Everywhere」が演奏されたのは、楽曲発表直後の1987年「Fanks! Bang The Gong」のみであり、アルバム「Self Control」中でも影の薄い曲だった。
(なお「Fanks! Bang The Gong」では3人のアコースティック演奏だったので、バンド演奏は「Tour Overtone」が史上初)
これが演奏されたのは、10/20に人気投票が終わった「Welcome to the Fanks!」に本作の収録が決まったことによるのかもしれない。
これ以後本曲は、tribute LIVE・TM・ウツソロで頻繁に演奏されるようになる。


ただし11/7の最終公演ではウツの声の調子が悪く、アンコールの「The Long Night is Over」「Trouble in Heaven」がカットされ、当然DVDにも入らなかった。
そのため2005年リリースのベスト盤「The Best 2000-2004」には、11/6公演の音源から「アクシデント」「The Long Night is Over」が収録されている。


木根もTM20周年の活動と並行してソロの準備も行なっており、8月からのソロツアー「talk&live 番外編 vol.4」開催を、TM武道館公演以前の6月に発表している。
「talk&live 番外編 vol.4」は8/27~10/8に6公演行なわれた。
新譜のリリースは伴わないツアーで、過去の曲の他、洋楽スタンダードのカバーなどを演奏した。
TM20周年で演奏されなかった「風のない十字路」も演奏している。
また9月からは2006年まで、森口博子とのコラボライブ「Voice two Voice」を散発的に開催するようになる。
木根はさらにこれに並行して、「真・電気じかけの預言者たち」の執筆も行なった


木根がこの時から始める新機軸として、舞台への挑戦がある。
その初演は劇団IOHの「家族対抗歌合戦」で、2005/3/12~27の16日間、新宿シアタートップスで毎日上演された。
木根は役者として出演したほか、音楽も担当している。
舞台の告知は上演9カ月前の2004年7月に行なわれており、TM20周年終了とともに始まった試みということになる。


木根がこの舞台に関わるきっかけは、「CAROL Tour」のダンサーであるU2ロケットの石山博士を介して、2003年に演出担当の林邦應と出会ったことだった。
同年にミュージカル「天使は瞳を閉じて」の楽曲制作を行なったことで、舞台関係者と会う機会も増えたのかもしれない。
なお偶然のようだが、林はTMライブの舞台監督だった鬼塚玲二の弟子筋に当たる人だという。


木根は「家族対抗歌合戦」以後、継続的に舞台に出るようになったわけではないが、2009年にも同じIOHの舞台「天使の涙」に出演するなど、時折舞台とも関わるようになっていく。
これは2016年、自ら劇団こどもみかんを立ち上げる前提にもなっただろう。


最後に小室について見てみよう。
2004年後半の小室がリリースした作品は、7/28発表の藤井隆「タメイキ」(アルバム「オールバイマイセルフ」収録)を除くと、11/25リリースの2amのシングルをプロデュースしたくらいである。
本作は10月から放送が始まったアニメ「ゾイドフューザーズ」日本版のオープニングテーマとエンディングテーマを収録したシングルだが、まったく売れなかった(チャート193位)。
なお小室は「ゾイドフューザーズ」日本版の音楽を担当したが、実質的にはシングル2曲しか関わっていないようである、


2amのボーカルは2曲それぞれ別で、オープニング「enemy of life」は雨上がり決死隊の宮迫博之(当時くずのボーカルとしても活動)、エンディング「Self Control 2004」はかつて小室がプロデュースした天方直実である
「Self Control 2004」は曲名だけ見るとTM曲のカバーかと思ってしまうが、まったく関係はない。
どういうつもりでこの曲名にしたのだろうか。


もとより2amは吉本の仕事としてこなしたものに過ぎないと思われる。
この頃の小室が軸となる活動として想定していたのは、他の2つだった。
一つはすでに触れたglobe decadeである。


2004/8/9、小室はglobeツアーの開催を告知し、それは10年間のベストヒットライブになると述べた。
実際に11月から翌年1月にかけて開催されたツアー「globe decade -access best seasons 1995-2004-」は、この宣言の通りのベストヒットライブだった。
これは2年半ぶりのglobeライブであり、またglobe最後のフルライブでもあった。


このツアーのサポートはギターの葛城哲哉のみで、ほとんどの音は小室が制御するという「Double-Decade "NETWORK"」以後のTM20周年ライブと同様のスタイルが取られたが、日本初の24bitフルデジタル・サウンドシステムを採用するなど、音へのこだわりがより強く打ち出された。
これは翌年avexが高音質音源の配信について研究・実験を行なう事業として立ち上げたHigh Definition Sound laboratry(HD Sound Lab.。エグゼクティブ・プロデューサーは小室)と関わるものかもしれない。


なお2002年にglobeに加入したはずのYOSHIKIは、このライブにはいなかった。
この時点では、YOSHIKIは2005年から参加すると説明されたものの、これも結局実現していない。
10周年記念アルバム「globe2 pop/rock」の発売前日の2005/8/9に開催されたリリースパーティでは、YOSHIKIが参加する時にはglobe extremeの名義を用いるとされた(つまりglobeの通常の活動にはYOSHIKIは参加しない)。
もちろんこの名義は、現在まで一度も使われていない。
2002年に大々的にアピールされたYOSHIKI加入の、なんとも尻すぼみな結末だった。


小室の活動のもう一つの軸は、サッカーとの関わりだった
小室自身がこの頃サッカー好きだったこともあるが、もう一つ、大分トリニータのスポンサーになったことも関係していた。
大分は妻KEIKOの実家だが、小室はKEIKOの父など家族との親交も厚く、KEIKO実家に行くことも多かった。
そのためKEIKO実家が喜ぶことをしたかったということがあったらしい


その契機となったのは2003年11月、小室とKEIKOが大分開催の国際親善試合(日本・カメルーン戦)を観戦した時に、大分トリニータのGMからスポンサーとなる打診を受けたことだった。
これを受けて翌年6月にはトリニータのスーパーバイザーに就任し、8月には企画会社Tribal Kicksを設立してトリニータのメインスポンサーとした。


Tribal Kicksは2006年1月まで1年半、トリニータに毎月1200万円を支払う契約を行なった。
当時すでに負債を抱えていた小室が、総額2億円以上のスポンサー料を出す契約をしたことには驚嘆する。
案の定この契約はまもなく破綻するのだが、小室はそれほど無理をしてでも、本腰を入れてサッカー業界に食い込もうとしていた。


小室はトリニータとの契約に前後して、活動拠点を大分に移すことを決意した。
2004/6/8には「Double-Decade Tour」福岡公演が行なわれたが、小室はその終演後に大分に移動し、翌日県庁を訪れて広瀬勝貞県知事に面会して、大分を拠点に活動を行なうことを宣言した。
なお小室はこの面会後、午後に広島に移動し、広島公演を行なっている。


大分への拠点移動宣言は、ファンにとっても寝耳に水の話だった。
以後2008年の逮捕まで、小室は大分と東京を行き来しつつ活動を行なうようになる。
FM大分ではこの頃、小室とKEIKOがパーソナリティを務める「オフサイドライン」が始まった。
期間は把握していないが(聞いたこともないが)、7月頃から始まったらしい。


2003年のglobe東京ドームライブ中止以来、小室がまともに仕事をしなくなっていたことは、これ以前から見てきたところである。
この間の小室は仕事への情熱を失い財産を浪費する日々だった。
ところが小室は年末にTMの新曲制作を自ら申し出るなど、やる気を見せるようになる。
2004年1月に制作された「Screen of Life」の歌詞に、「死に際のスクリーンとてもすてきな大作にクライマックスを作りましょう」とある通り、小室はふさぎ込んでいた日々から抜け出して、絶望的な状況でもがんばろうと決意をしていた。


6月に作った「Green Days」の歌詞についても、曲名の「Green」は青信号の意味で、前に進む意味であると、小室自らライブMCで述べている。
小室は自らの生きる決意を歌う歌詞を作り、自らを鼓舞させ前進しようと考えていた。
ここでいう前進とは、発言のタイミングから見て、大分での活動のことだろう。
歌詞に「緑の芝生を歩いて思った」というのも、大分を拠点としたサッカー関係事業を念頭に置いたものにほかならない。


小室は6/25にTM武道館公演「Double-Decade Tour Final」が終わるとともに、すぐに大分での活動に着手する。
6月末のFC会報では、今後サッカーとダンスミュージックをミックスしたイベント・パッケージを始めることが宣言されている。
7月にはサッカーを音楽や映像と合わせてプレゼンテーションするプロジェクトを立ち上げる計画に言及しているが、これもおそらく同じことだろう。


小室はこの頃から、サッカー番組や雑誌のサッカー特集などに顔を出すようになる。
8/1には大分スポーツ公園総合競技場で、トリニ-タと上海申花との国際親善試合の前に小室が出演し、数分の音楽パフォーマンスを担当した。
8/4には静岡スタジアムエコパで、ジュビロ磐田vs FCバルセロナ戦の開催セレモニーも担当し、KEIKOも共演して「I Will Survive」「AIDA 決めてくれー!」などを演奏した。


10月からはスカイパーフェクTV!で、月1回30分「Electone Stagea Presents Tribalkicks TV」が放送された。
「FOOTBALL+MUSIC=GROOVE」がキーワードだった。
原田大三郎もプロデューサーとして協力している。

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「フットボールと、ミュージック」(キリッ)



番組では国内外のサッカー選手の映像やインタビューが流されたが、有料チャンネルということもありほとんど話題にもならず、3回放送されて終わってしまった。
番組ではサッカー選手に音楽の質問などをするのだが、有料放送でこれを見るサッカーファンはどの程度いたのだろうか。
なお見たことはないが、年末12/30にはBSiで、特番「小室哲哉 サッカーの音色」が放送されている。


一つ「Tribalkicks TV」で注目すべきこととして、BGMとしてKEIKOボーカルの「I Want You Back」「Happiness×3 Loneliness×3」が流されたことがある。
これら2曲は後にDJTK名義でリミックスされ、配信音源およびCDとして商品化したが、番組で流れたのはそのラフミックスである。


TMの「Double-Decade Tour」に並行して小室が各地のクラブで開催したイベントでも、小室のDJプレイに加えて、KEIKOの「Just One Victory」「I Want You Back」のカバーが披露されている。
当初は「Just One Victory」「I Want You Back」と同様に商品化の可能性を考えていたのかもしれない。
小室は「Just One Victory」をトリニータのオフィシャルサポートソングにしようとも考えており、TMの20周年ライブで本曲が演奏されたのもこれと関わると思われる。
「Double-Decade Tour」のMCでも、口コミでこの曲を広めてほしいと言っている。


「Tribalkicks TV」のBGMとしては他に、「Anthem of Tribalkicks」「KEIKO Meets Football」「Off the Pitch」「We Love Football」「Football Will Rock You」などのオリジナル曲(未商品化)や、翌年のglobeのシングル「Here I am」のプロトタイプが用いられており、小室が本番組に精力的に取り組んでいたことも分かる。
なおこれらの演奏では、スポンサーYAMAHAのエレクトーンStageaが用いられた。


Tribal Kicksが形にした仕事は実質的にこれらだけであり、2005年にはこの方面での活動は息をひそめる。
そこにはある事情も絡んでいたのだが、これについては別章で触れることにしたい。
ともかく小室はTM20周年が終わるとともに次の活動に移っており、そこにTMの影はまったく見えなかったのである。

Cream Of J-POP ~ウタイツグウタ~ - DJTK
Cream Of J-POP ~ウタイツグウタ~ - DJTK

この記事へのコメント

やまびこ
2020年05月16日 07:15
更新が意外と早く、とても嬉しいです。私としては、読点があった方が読みやすいです。さて、20周年の一連の活動はそれなりに楽しかったのですが、前回のリリース関連以外の実際の動きを見ると、絶望的だったと思います。当時の私は、一応、globeやovertoneなどのライブに通っていました。20周年の頃の動きとして、ファンの動き方にも時代の特徴があったような気がします。例えば、当時はメーリングリストでの交流が多かったと思います。あとは、ヤフオクやネットで過去のテレビ出演映像やライブ音源が飛び交ったのも、この時期だったと記憶しています。本体の動きではありませんでしたが、ファンにとっては20周年を機に、こうしたものの収集整理が進んだと思います。そして、本体とその周辺では、こうした「商機」に取り組む意志が見られなかったことが残念でした。昨年出たDragon the Festival の完全版なんて、あの時期に出ていたら、どれだけ喜ばれ、売れたことかと思います。いずれにせよ、あの時期はTMの「その後」を期待することは難しかったのですが、30周年にまで繋がったことを、今後の希望として持ち続けたいと思います。特に、ウツのライブをステージの袖で見ている小室さんの様子を見て、少しは希望を持っていても良いのかなと思いました。
haru
2020年05月16日 07:45
お忙しい中私の楽曲に対する思い出話に返信していただき、ありがとうございました。今後も書き込んでいきますので一つでも返してもらえたら幸いです。

 ところで公式HPには出ていませんが「平凡 Special 1985 僕らの80年代」という雑誌に木根さんのインタビューが7ページほど載っています。主に80年代の活動について語っています。

 ちなみに「昭和50年男 オレたちの90年代 1990-1994 5 years」という雑誌には丸山茂雄さんのEPIC SONYに関するインタビューが載っていて、その中でTMN、というより小室さんについて語っている部分もありました。

 いずれも初めて語られた内容が含まれているかどうかは分かりませんが…。
2020年05月18日 10:47
そうそう、クリスマスカードありましたねぇ~。緑の封筒に赤いリボンの印刷だったかな。
当時3人のファンクラブ全部に入ってたから3通届いたんですが、当たり前というか、まあ内容は3つ全部同じでしたね。
当時はこんなクリスマスカードでも飛び上がるほど嬉しかったんですが、今になって思えば、この辺りから所謂【吉本暗黒期】に突入するのかと思うと、色々と複雑ですね…。
エルレ
2020年05月18日 20:40
変わらずソロ活動も内容が濃くてすごいと思います。

何故そこまで把握できるのでしょうか。。

やまびこさんのコメントからもあったように
この頃ヤフオクも過渡期で、
映像が過去の映像がかなり取引されていたのを
覚えております。
実際に購入しましたので。。。

コロナ減少傾向にはなっておりますが
第二波、第三波の懸念がありますので
お互い気をつけて参りましょう。
椎名
2020年05月22日 11:52
ウツのブルーレイがベスト10入りするとは。
日本屈指のボーカリストなのに、
世間での知名度や評価が過少気味なのがファンとしては悔しい限りでしたが、
時代がようやく追いついてきたと言えるのでしょうか。
しかし、枚数的に800枚程度でランクインという、
昨今のCDやDVDの売上減を今更ながら実感しますね。

当時の哲ちゃん、
これまでスポーツのスの字も言ってなかったのに急にどうしたんだ?
と思ってました。個人的に唐突感がありました。
この頃の哲ちゃんには違和感しかありませんでした。

今、何してんでしょうね。
コロナ禍の今こそ、3.11の時のように音楽で何か出来そうなのにな。
完全に創作意欲が無くなってしまったのでしょうか。
離婚問題でそれどころじゃないのかな。
サキコ
2020年05月30日 15:42
お三方、なんとかコロナに感染しないよう引き続き気を付けてほしいです。
ところで、Social Distance ってなぜTMっぽいとか小室哲哉っぽいと言われるんでしょうかね?なんか笑ってしまいました!確かに、Pandemic とかIncubation Period など、TMファンは語彙力鍛えられていますよね!
ジルラココ
2020年05月31日 14:46
小室さんのサッカー関連の仕事ぶりを見るにつけ、99年にそれをやるべきだったんじゃ……と思ってしまいます
99年はヴェルディ関連の仕事をTMとして受け、それを足掛かりの一つとして再始動しました
このタイアップが効果的であれば、もっと盛り上がったんじゃないでしょうか
しかし、サッカーファンだった私でさえ、当時のTM × ヴェルディについてはあまり知りませんでした
「10 YEARS AFTER」などは、曲の良し悪しは別として、とてもじゃないけどスタジアムでみんなで盛り上がったり歌ったりできる曲とは思えません
「ハピロン」の政府がらみや、「80's」のトヨタノアなど、99年はとにかくタイアップを生かせないまま終わってしまった感じで、とても残念です
そして、この2004年〜の小室さんのサッカーへの接近は、99年どころじゃない残念さです
青い惑星の愚か者
2020年06月02日 00:51
>やまびこさん
更新は早かったのにリプライが遅くてすみません。
まずはDragon The Carnivalの小室さん、ぬか喜びはいかんと思いつつも、期待したくはなりました。

さて、2004年ですが、SONYは本当の意味での新商品はCAROL THE LIVEくらいでした。編集費をかけるほどの商機とは思っていなかったんでしょうか。
私ももっと出してくれとは思っていたんですけどねえ。


>haruさん
平凡スペシャル、情報は聞いていたんですが見ていません。
木根さんのインタビューは目新しいものはあったんでしょうか?
個人的には丸山さんのインタビューの方が気になりますが、それでも今さら新しい話は出ないだろうとは思っています。
ちゃんとしたインタビューを見たいのは、小坂洋二さんと松村慶子さんですね。


>秀さん
FC3つ全部入っていたてすごいですね。そんな人がいるなんて。
小室さんのFCはそろそろなくなっちゃう時期ですね。
もうそれどころじゃなくなっていたんでしょうね。


>エルレさん
この頃はファンの間でもネットの利用が一般化してきて、掲示板でコレクションの交換がされたりヤフオクで違法出品があったりしましたね。
ドラフェスの完全版と称するものも出品があったとか聞いたことあります。
この頃のファンの交流があったから、捨てられずに伝えられたものもあるんだろうと思います。


>椎名さん
ウツソロの映像ソフトのベスト10て、多分T.UTUの時代とかはともかく、少なくとも今世紀では初めてですよね。
まだTMを熱望する層が一定数いるんだなと感じました。
まあ今創作意欲を云々言うのは酷でしょう。創作できないて言って引退したんだし。

小室さん、一応1999年頃にもサッカーの話はしていたと思います。2002年のワールドカップの時も便乗商品出してたし(ULTRASとかいうしょうもないやつ)。


>サキコさん
年も年だから、コロナは気を付けてほしいですね。まあそうそう罹患はしないと思うし、木根さんやウツは気を付けると思います。
小室さんはまあわかんないけど、看護婦が守ってくれているんじゃないでしょうか。


>ジルラココさん
ヴェルディのテーマソング、たぶん当時のヴェルディファンもそんなに歓迎していなかったですよね(サッカーにはまったく興味ないのでよく知らないのですが)。
この頃のタイアップ戦略はだいたい外していた印象は私もあります。
最たる例はcastle~ですね。
まあその後はまともなタイアップすらこなくなるわけですけども。
椎名
2020年06月02日 14:30
連投すみません。
haru
2020年06月02日 17:58
8月26日に「DECADE」「All the Clips」のBlu-ray盤をリリースすることが発表されました。

 管理人さんが前項で予想された、そのまんまの通りの結果となりましたね…。
haru
2020年06月04日 16:32
平凡SPの木根さんインタビューで私が初めて知った部分を以下に書き出してみます。


・TMデビュー直後に東京と大阪のライブハウスで行った全てデジタルだけのコンサート、箱は満杯だったけど実際チケットは10枚も売れず、関係者が集客してくれたよう。だからか、このライブはTMヒストリーから抹消された。

・アルバム「RAINBOW RAINBOW」で宇都宮さんはドラムの伴奏のみで歌入れを行った。当時「金曜日のライオン」は本当に歌えなかった。(Together Together~の部分とか )作曲した小室さん自身が「これは歌えないな」と言ってたぐらいだった。

・(後で聞いたら)本当は1年でクビだった。小坂Pが上層部にあと1年だけ、と毎年掛け合ってくれて3年目には「今年TMが売れなかったら自分も辞める」と言ってくれた。

・その小坂Pは歌詞にものすごくこだわる方。小室みつ子さんなどプロの作詞家をTMにつけたのは、小坂Pが小室さんや木根さんの作詞をあまり認めていなかったから。


 そして今後について「まだTMに使命があるのなら、必ずまた3人でライブをやる時が来るとは思います」と語ってくれました。
haru
2020年06月04日 16:59
そして丸山さんのインタビューではTMNというよりプロデューサー・小室哲哉について語っています。

 
 EPICに所属していながらavexの複数のアーティストをプロデュースすることで出てきた小室さんの契約問題を解決するために丸山さんが奔走していたわけですが、演奏の権利はEPICにあったけど「データの打ち込みは演奏ではない」と言い切って問題を乗り越えたそうです。

 丸山さんならそんな大胆なことをやってくれる、と小室さんは最初から見抜いていたようで「彼のビジネスセンスはすごいものがある」と丸山さんは小室さんのことを称賛していました。


 二つのインタビュー記事を抜粋して書き込みましたが、私が初耳なだけでファンには既に知られている内容ばかりだったかもしれません。
青い惑星の愚か者
2020年06月12日 04:16
インタビュー情報ありがとうございます。
木根さんの方はちらほら気になる話があります。

ファーストライブのチケット売上10枚は、さすがに木根流の盛り過ぎと思いますが、売れていなかったんでしょうね。
本当は1年で首だったというのは、どこかで聞いた気もしますが、厳しいですよね。3年目はたしかにどこかの記事で見たはずです。
ただ木根話の場合、数字の話はかなり割り引いた方が良いとは思っていますけども。
歌詞について、小室さんを認めていなかったというのは初耳です。ただみつ子さもその頃プロの作詞家じゃまかったですけどね…。

丸山さんの演奏権クリアの方法もなかなか強引ですね。
無理筋な理屈と思いますが、これが有能な経営者てものなんですねえ。
haru
2020年06月12日 14:12
木根さんが数字を盛って話すクセ、確かにあるかもしれません。

 今回の平凡SPインタビューでもデビュー前に「1974」「パノラマジック」を録音したテープを”500本”くらい配ったと話しています。このブログではレコード会社10社に渡したと記してあったので、一つの会社に同じテープを50本も送ったのでしょうか…?

 それからアルバム「Self Control」から小室みつ子作詞の楽曲がグッと増えたことに対し木根さんは「詞を書きたかった小室君は悔しかったでしょうね」「(あくまで僕の推論だけど)小室君は自分の詞への思いをTKファミリーで果たしたんじゃないかな」と答えています。

 管理人さんはかつてこのブログで小室哲哉作詞の「Electric Prophet」「Gravity of Love」を”びっくりするくらい言葉選びのセンスが抜群だ”と絶賛されていました。小坂Pの厳しい審査や要求をクリアして採用されたからこそ心を掴むことが出来たのかもしれません。

 ところがその後のTKブームの歌詞について「意味不明で薄っぺらい」「空虚なキャッチフレーズの羅列」「適当なノリの良い言葉を並べているだけ」と管理人さんからかなりシビアな評価をされちゃっています。小坂Pに作詞家として鍛えられたはずなのに、不思議です。

 小坂Pがプロデューサー・小室哲哉の作詞をどう思っていたか本音を聞いてみたいですね。
青い惑星の愚か者
2020年06月20日 12:31
500本はないでしょうねえ。
まあ実際に40年近く前の出来事ならともかく、数字までは覚えていないと思います。
そんなら中途半端に話すなって話なんですけどね…。

歌詞に関する木根さんの推測は、当たっているかどうかはともかくとして、興味深いですね。
小室歌詞でも、金曜日のライオンなんかは普通に良い歌詞だと思いますよ。
代役だったんですけどね(笑)。

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